日本発送電の登場
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「只見特定地域総合開発計画」の記事における「日本発送電の登場」の解説
詳細は「日本発送電」を参照 1938年(昭和13年)、東條英機ら軍部統制派の圧力に押された第1次近衛内閣は戦時体制を遂行するため電力の国家管理を目論み、松永安左エ門ら電力業界の猛反発を抑え込んで第73帝国議会に「電力国家管理法案」を上程。翌1939年4月1日に国家総動員法と共に電力管理法・日本発送電株式会社法を成立させた。これに伴い特殊法人として発足した日本発送電株式会社は出力5,000キロワット以上の水力発電所および出力1万キロワット以上の火力発電所をほぼ例外なく管理下に置き、かつ同規模の新規電力開発を電力会社が実施することを事実上禁止した。 只見川や日橋川、猪苗代湖などの水力発電所を保有、もしくは計画していた東京電燈は既設の水力発電所のほとんどを日本発送電に接収され、只見川で計画していた11発電所も施工の継続を差し止められた。東京電燈は発電用水利権が残されたものの、発電所の開発も運用も出来ないことから水利権も有名無実な状態に追い込まれた。また東信電気が所有していた新郷・豊実・鹿瀬の三発電所と施工中の山郷発電所も接収され、大正時代から民間によって開発された水力発電所はほぼ全て取り上げられた形になった。 日本発送電は発足後の1940年(昭和15年)2月20日、監督官庁である逓信省電気庁を通じ米内内閣より宮下発電所建設事業着手の指示を受けた。この宮下発電所は沼沢湖の下を流れる只見川に宮下ダムを建設し、最大6万4200キロワットを発電するというものである。だがこの宮下発電所を建設すると東京電燈が保持していた野沢発電所及び沼沢沼揚水発電所の水利権と競合する。そこで日本発送電株式会社法第24条に基づいて東京電燈が保有していた水利権を行政処分にて取り消し、宮下発電所の工事に着手したのである。ここに只見川最初の水力発電計画となった野沢発電所計画は潰えるが、元々費用対効果の面で非効率的な発電所であり、仮に完成していれば宮下発電所より下流の発電所が建設できない可能性があった。その意味では長期的に見た場合野沢計画の中止は只見川の水力発電計画にはプラスに働いたのである。 1941年(昭和16年)に始まった宮下発電所建設事業は困難の連続であった。まず冬季の豪雪と夏季の豪雨が工事の進捗を阻み、続いて戦局悪化に伴う物資の欠乏で放流用のゲートの搬入もままならなかったばかりか、次第にダム建設のための物資も枯渇する有様となった。こうした状況にもかかわらず日本発送電の監督官庁であった軍需省電気局 は1945年(昭和20年)までの完成を厳命しており、中国人労働者の強制労働などで工事を進め1944年(昭和19年)にはダム湖への湛水(たんすい)が開始された。だが完成予定の1945年日本は終戦を迎え、一時工事は中断する。しかし今度は戦後復興のための事業に変化し工事は再開され、物資と電力が極端に欠乏する中で1946年(昭和21年)に発電所第1号機が運転を開始、1万3800キロワットの電力を生み出すことができた。そして1949年(昭和24年)には当初の計画を半減し認可出力3万6000キロワットとして事業を完成させた。これは阿賀野川に建設されていた山郷発電所でも同様だった。 一方福島県が頑強に反対していた尾瀬原ダムの利根川への分水計画であるが、1944年9月16日に荒木万寿夫軍需省電気局長は日本発送電に対し「尾瀬沼から利根川水系片品川への流域変更(分水)による発電所出力増強を直ちに図ること」という指令を下した。そして日本発送電から石井英之助群馬県知事と石井政一福島県知事に対し水利権使用の早急な許可を求めた。福島県は当初より分水反対の姿勢を崩していなかったが、軍部に逆らうことの愚を悟り、やむなく許認可を下した。日本発送電が尾瀬沼の分水を「緊急措置」として使用し、戦争終了後は原状復帰すると確約したことも、福島県の認可を引き出す要因になった。翌年に戦争は終了し本来なら原状復帰されなければならないところ、軍需省廃止後に電力行政を継承した商工省 は「国土復興のため」として尾瀬沼から片品川への分水を継続するよう日本発送電に指示した。福島県としては当初の約束を反故にされた形になるが、今度は国土復興という大義名分には逆らえずこれを認めた。その結果尾瀬沼から三平峠をトンネルで越えて片品川へ導水する事業が1949年完成する。
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日本発送電の登場
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「飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「日本発送電の登場」の解説
詳細は「日本発送電」を参照 国家総力戦を至上命令に政治の主導権を掌握していた東條英機などの軍部統制派の圧力に抗し切れなくなった第1次近衛内閣は、1938年1月第73回帝国議会に電力国家統制のための三法案を上程。東邦電力社長であった松永安左エ門ら電力業界の猛反発を抑えて国家総動員法などと共に電力管理法、日本発送電株式会社法ほか1法案を成立させ、これに沿って1939年日本発送電を発足させた。「半官半民」と謳ってはいたが、経営・人事の全てを内閣が握っており事実上国家による電力管理が開始された。日本発送電は出力5,000キロワット以上の水力発電所およびダム、出力1万キロワット以上の火力発電所、重要な送電・変電設備を管理し、発電と送電を一括して実施すると同法で定められ、これに伴い日本各地の発電・送電・変電施設は「出資」という形で強制接収された。 飛騨川に建設された水力発電所についてもこの例に漏れず、接収の対象となった。1941年(昭和16年)配電統制令の発令に伴い日本全国の電力会社が解散させられ9配電会社に再編されたが、この年の5月日本電力と東邦電力が所有していた全ての水力発電所とダムが日本発送電に接収され、全て「国直轄管理」となった。日本発送電は接収後飛騨川の水力発電事業について、飛騨川上流部の大野郡朝日村(現在の高山市)に大規模なダム式発電所の建設を計画する。これが朝日ダムと朝日発電所であるが太平洋戦争の激化に伴い建設物資が不足、事業は中断したまま終戦を迎えた。 戦後の1946年(昭和21年)6月、日本発送電は朝日村に現地事務所を設置するが、設置当初は養蚕小屋を借りて業務を行うという状況であった。その中で基礎的な資料収集を行うが1948年(昭和23年)日本発送電は戦時体制に協力した独占資本であると連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より過度経済力集中排除法の指定を9配電会社と共に受け、以後電力再編成について政界や財界を巻き込んだ激しい論争の渦中に叩き込まれた。最終的に旧東邦電力社長で、電気事業再編成審議会委員長である松永が提案した「9ブロック分割案」がGHQに受け入れられ、1951年(昭和26年)ポツダム政令として電気事業再編成令が発令。日本発送電と9配電会社は発電・送電・配電を一括で行う9電力会社として分割・民営化された。中部地方では日本発送電東海支社と中部配電が合併する形で中部電力が誕生する。しかし発電用水利権の帰属に関しては旧日本電力・旧大同電力の流れを汲む関西電力との間で木曽川水系の水利権帰属について紛糾する。 豊富な水量と高落差を有し、未開発の水力資源が多く残存する木曽川水系の水利権帰属は、北陸地方の河川と同様に大いに揉めた。最終的に公益事業委員会の裁定によって木曽川本流については関西電力、長良川・揖斐川そして飛騨川については中部電力が水利権を継承することで決定し、以降飛騨川の水力発電所とダム、そして発電用水利権の一切は中部電力が所有することになり現在に至る。
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