作戦中止決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
知日派のアメリカ合衆国国務次官ジョセフ・グルーは、双方に甚大な損害をもたらすダウンフォール作戦には反対であり、「天皇制の容認を含む処遇を示せば、日本人は武器を置く」とトルーマンの説得を試みているが、トルーマンは一旦は軍の意見を取り上げて、オリンピック作戦を承認している。グルーの意見は陸軍長官ヘンリー・スティムソンに引き継がれた。スティムソンは何度も日本を訪れたことがあり、そのときの記憶から「(日本本土は)硫黄島や沖縄で見られた最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」との感想を抱いていたため、1945年7月にポツダム会談に向けて準備中のトルーマンに「我々が実際に侵攻を始めた場合は、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを覚悟しなければならない。我々はドイツの場合より重大な損失を被ることは間違いないし、一層徹底的に日本を破壊する必要がある」として「日本の現皇室の下での合法的な君主制は排斥しない」という言葉を盛り込んだ「実質的に無条件降伏に等しい申し出を行い」「降伏のための一定の機会を与えてはどうか」と進言している。 この頃になると、オリンピック計画作成時の日本軍戦力分析は過小評価であったことが判明しており、損害の見積が上方修正されていた。(#被害予想)特にドイツ軍との戦いの対比が論じられ、スティムソンの「ドイツ本土よりも戦車の運用が困難」「ドイツとの戦いよりも大損害を覚悟する必要がある」という意見の他にも、ヨーロッパ戦線で連合軍と戦ったドイツ軍は、部隊が崩壊すると大量の兵士が降伏し残りは速やかに敗走するため、連合軍は先を争って急進撃し大勝利を得たのに対し、太平洋戦線で連合軍と戦った日本軍は、退却するにしてもじわじわと退き、さらにドイツ兵とは異なり日本兵はほとんど降伏することがなかったので、連合軍は延々と続く戦いを強いられることとなっていた。そのため、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の1日の兵員1,000名に対する平均死傷者は、ヨーロッパ戦域の3.5倍という高い水準となっていた。 ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍(陸軍航空軍含む)は1944年6月~45年5月までに、135,576人の戦闘戦死者を含む586,628人もの死傷者を出したのに対して、太平洋のアメリカ軍(海軍、海兵隊、陸海軍航空隊を含む)は1941年12月~45年8月までに111,914人の戦闘戦死者を含む426,000人から、戦闘外原因を含めると死者だけでも196,265人もの甚大な人的損害を被っていた。ことに大戦末期のヨーロッパ戦線の最大の激戦となったバルジの戦い(1944年12月16日 - 1945年1月25日)において、アメリカ軍は戦死者8,607人から19,000人、捕虜・行方不明者21,144人(うち捕虜が20,000人以上)に負傷者を加えた75,000人~76,000人~80,000人という甚大な人的損失を被ったが、太平洋戦争の激戦地となった沖縄戦(1945年3月26日 - 9月7日)では、それに匹敵する、死者・行方不明者20,195人、戦傷者 55,162人、戦闘ストレス反応患者26,211人という莫大な損失を被っていた。 バルジの戦いでは8個機甲師団と22個歩兵師団の計30個師団70万人のアメリカ陸軍が、精鋭の武装親衛隊装甲師団を含む20個師団と予備5個師団の計25個師団40万人以上のドイツ軍大兵力を相手にしていたのに対し、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない陸軍50,000人、海軍3,000人の戦闘部隊と後方部隊20,000人に、沖縄現地召集兵を加えた約11万6,400人の兵力で、装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と評されていた陸軍4個歩兵師団と3個海兵隊師団の計27万8000人、後方支援部隊も含めれば548,000人ものアメリカ軍地上部隊と戦った。 沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのかアメリカの指導部内に不安が蔓延することとなった。 沖縄戦での日本軍の激しい抵抗はアメリカ軍に衝撃を与えており、歴史家ジョージ・ファイファーは、オーヴァーロード作戦におけるドイツ軍と比較して「前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にも関わらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった」「このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出るという悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう。驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである」と日本陸軍が夥しい損失にも関わらず、最後まで組織的な戦闘を継続したと評された。 第二次世界大戦末期、アメリカ国内では、オーヴァーロード作戦やバルジの戦いなどのヨーロッパ戦線の激戦が大きく報道されていた。特にアメリカ軍史上最大の作戦ノルマンディー上陸作戦では、その余りにも凄惨な現場から“ブラッディ・オマハ”と呼ばれたオマハビーチの戦いでの戦死者約2,000人、オマハ・ビーチを含めたD-デイのアメリカ兵の戦死者は2,501人に達し、なかには歩兵の85%が犠牲になった部隊や師団あたりの損耗率は絶滅戦争と呼ばれた同時期の独ソ戦よりも上だった師団もあるなど、苦戦の連続であった。また、オマハ以上に血まみれと称され連合国から第一級の敗北と呼ばれたヒュルトゲンの森の戦いなど、多くの損害を被った戦いもあったが、アメリカ国民はその損害よりはアメリカ兵たちの活躍の報道を喜び有頂天となっていた。 これらヨーロッパの大損害は太平洋戦争にも影響を与えている。バルジの戦いでは歩兵師団が大損害を受けた結果、アメリカ国内で訓練中の6個師団がヨーロッパ戦線に送られたが、そのうち2個師団は太平洋戦線に送られる予定であった師団であり、また、作戦での武器・弾薬の大量消費から、太平洋戦域への補給も一時的に停滞した。太平洋戦域での戦力不足が解消されるには時間を要し、1945年3月に開始された沖縄戦でアメリカ軍は死傷者最大75,753人と「バルジの戦い」に匹敵する大損害を被ったこともあって、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦の作戦計画を遅らせることとなった。 一方で太平洋戦線においては、アメリカ軍の苦戦ぶりと多大な人的損害が、センセーショナルに報じられて、ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍の活躍に有頂天となっていたアメリカ国民に衝撃を与えている。特に硫黄島の戦いにおける報道はアメリカ国内世論を沸騰させ、雑誌タイムの「硫黄島の名前はアメリカ史上、アメリカ独立戦争でのバレーフォージ、南北戦争でのゲティスバーグ、今次大戦でのタラワ島と並んで記されるであろう」という報道もあって、アメリカ軍に対して批判が高まって、兵士の親からの批判の投書も殺到し、アメリカ合衆国海軍長官ジェームズ・フォレスタル自らが返信をせざるを得なくなるほどであった。連合国遠征軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を指揮したドワイト・D・アイゼンハワーも、不毛で狭小な硫黄島と「広く開放的な空間」であったノルマンディ海岸とを比較し、この小さな島に60,000人ものアメリカ海兵隊が上陸して戦闘したことに対して「こんな制約された地形で、(自分は)そんな規模の戦いを思い描くことはできない」と驚愕し、かつての上官であったマッカーサーが硫黄島での大損害を批判していたことにも触れて「彼には(このような戦闘を)なかなか理解できなかったのだろう」と述べている。 これらの大きな損害と被害予測、国内世論がスティムソンら日本本土侵攻慎重派の発言力を後押しすることとなった。トルーマンは「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部のオリンピック作戦にゴーサインを出した。一方で関東上陸作戦コロネットは保留となった。 やがてポツダムで会議に臨んだトルーマンの元にトリニティ実験の成功の報がもたらされた。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥ら日本本土侵攻推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術使用を考えていたが、スティムソンら慎重派は日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱した。ポツダム宣言草案には、スティムソンらが提唱した「天皇制の保障」は明記されていなかったが、トルーマンは外交チャンネルを通じて口頭では天皇制の保障を匂わすことをスティムソンに約束、慎重派の進言通り、降伏を促す手段として原爆の使用を決定した。日本政府がポツダム宣言をいったん“黙殺”したため、8月6日には広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下が行われ、またソ連の対日参戦もあって、トルーマンらの目論見通り、日本がポツダム宣言を受諾したため、ダウンフォール作戦は中止となった。
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