リムスキー・コルサコフとは? わかりやすく解説

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リムスキー‐コルサコフ【Nikolay Andreevich Rimskiy-Korsakov】

読み方:りむすきーこるさこふ

[1844〜1908]ロシア作曲家ロシア国民楽派五人組一人色彩豊かな管弦楽法知られる作品オペラサドコ」、交響組曲シェエラザード」など。


リムスキー=コルサコフ

【英】:Rimsky-Korsakov, Nikolai Andreevich
[ロシア]  1844~1908

2007年7月 執筆者: 野原 泰子

 ロシア作曲家。「管弦楽法大家」として知られるように、色彩的で描写的な管弦楽法は、ロシア内外近代作曲家たちに多大な影響与えた
 軍人家系生まれ幼少から音楽親しんだサンクト・ペテルブルグ海軍兵学校在学中17歳時に「力強い一団」の最年少メンバーになる。海軍軍人として職務傍ら歌曲管弦楽曲などを発表してゆく。
 71年ペテルブルグ音楽院教授迎えられ作曲管弦楽法クラスを受け持つ(門下からは、グラズノフストラヴィンスキープロコフィエフなど、多く著名な作曲家輩出される)。音楽院での最初の年月には、古典派モデルとする室内楽曲ピアノ曲書き続けこれまで疎かにしてきた伝統的な作曲技法習得する74年軍務退いて軍楽隊監督に就き指揮活動開始。またロシア民謡採集編曲グリンカオペラ編集出版など仕事は、グリンカ和声法楽器法模範としたオペラ五月の夜》や《ロシア主題による弦楽四重奏曲》(79年)など、創作にも影響を及ぼす

ピアノ独奏曲

ピアノ合奏

管弦楽ピアノ


リムスキーコルサコフ

名前 Rimskii-Korsakov

ニコライ・リムスキー=コルサコフ

(リムスキー・コルサコフ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 04:45 UTC 版)

ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフロシア語: Никола́й Андре́евич Ри́мский-Ко́рсаков, ラテン文字転写: Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844年3月18日ユリウス暦3月6日) - 1908年6月21日(ユリウス暦6月8日)は、ロシア作曲家。「ロシア五人組」の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残す。


注釈

  1. ^ ロシア人による交響曲としては1850年に完成したアントン・ルビンシテインの第1番や第2番などが先ではあるが、ロシア的要素は少ない。しかもルビンシテインは生粋のロシア人ではなくモルドヴァ人で改宗正教徒であった。

出典

  1. ^ a b “Rimsky-Korsakov (1)”. The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 21 (2nd ed.). Macmillan Publishers. (2001). pp. 400-423. ISBN 1561592390 
  2. ^ デイヴィッド・G・ヒューズ著 『ヨーロッパ音楽の歴史』 ホアキン・M・ベニテズ+近藤譲訳、朝日出版社、1984年、下巻、613頁。
  3. ^ J・アンネンコフ『同時代人の肖像 中』現代思潮社、1971年、311頁。 
  4. ^ 出典:Russian Sacred Music by Rimsky-Korsakov


「ニコライ・リムスキー=コルサコフ」の続きの解説一覧

リムスキー=コルサコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 14:54 UTC 版)

チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「リムスキー=コルサコフ」の解説

1871年ニコライ・ザレンバサンクトペテルブルク音楽院楽長退いた後任のミハイル・アザンチェフスキーはより進歩的な音楽観を持つ人物であり、音楽院教育生まれわらせるために新たな活力を必要としていた。そこでリムスキー=コルサコフに実践的作曲楽器法教授職管弦楽講座指導役打診する。かつて極めて強硬にアカデミズムへの抵抗見せていたバラキレフは、敵陣営中心に見方配することに利点があるかもしれないとの考えから、彼が役職受け入れるよう背中押したそうした状況にもかかわらず、リムスキー=コルサコフは任用までに作曲家としての自らの技術的欠点痛感するうになる。彼は後に「愛好家だった私は何も知らなかった」と記している。加えてオペラプスコフの娘』を完成させる創作行き詰り生じてしまい、確かな音楽技法手に入れることのみが作曲継続できる唯一の道であると悟ったであった。彼はチャイコフスキー助言指導仰いでいる。リムスキー=コルサコフが音楽教育対す態度翻して熱心な自学始めると、ロシア遺産捨ててフーガソナタ書いているとして愛国主義者仲間は彼を非難した一方チャイコフスキー道徳的な態度で彼を支え続けた。そしてリムスキー=コルサコフの行い全面的に称賛すること、また彼の芸術対す謙虚さ個性強さ両方感心していることを伝えたのである。 リムスキー=コルサコフが音楽院勤める前の1868年3月チャイコフスキー彼のセルビア幻想曲に関する論評書いている。この作品考察を行うにあたりチャイコフスキーそれまで唯一聴いたことがあったリムスキー=コルサコフ作品である交響曲第1番比較して次のように述べている。「その魅力的な管弦楽法中略構造新規さ、そして分けても中略)純ロシア的な和声進行瑞々しさ中略)がただちにリムスキー=コルサコフ氏の非凡な交響楽才能[を示しているの]である。」チャイコフスキーの評はうまくバラキレフ一派歓心を買うように言葉選んで書かれており、事実その通りとなった翌月に彼はサンクトペテルブルクバラキレフ邸を訪れロシア5人組残り面々顔を合わせる運びとなった。後にリムスキー=コルサコフは次のように述懐している。 音楽院申し子であるチャイコフスキーは、我々の仲間からは傲慢ではないにしてもかなり怠慢に見られていた。また、彼がサンクトペテルブルク離れてしまっていたこともあり、個人的に面識を得ることは叶わなかった(中略話してみると[チャイコフスキーは]愉快で気の合う人物であり、気取らない立ち居振る舞いと常に裏表のない誠意ある話のし方を心得ていた。初め会った晩に[チャイコフスキーは]バラキレフリクエスト応える形で、彼のト短調交響曲交響曲第1番)の第1楽章弾いて聴かせてくれたが、それは我々の好み合ったのだったのであるチャイコフスキー音楽院での訓練がいまだ彼と我々の間で無視できないとなっていたものの、彼に対すかねてからの我々の考え変化し、より共感的心情勝ってきていた。 さらに「続く数年間も、[チャイコフスキーは]サンクトペテルブルク訪ねた折にはバラキレフ邸に顔を出すのが常であり、我々も彼に会っていた。」とリムスキー=コルサコフは綴っている。とはいえチャイコフスキー5人組伝統主義者らの双方から受け入れられることを望んでいたのかもしれないが、彼には両陣営から地理的に離れたモスクワに居ることにより独立保ち、独自の方向性見出すことが必要だったのである。これはとりわけ、リムスキー=コルサコフがチャイコフスキー音楽院での訓練指して無視できない壁」述べたこと、およびアントン・ルビンシテインチャイコフスキー偉大な西欧巨匠先例からあまりに遠く逸脱していると感じていたことに照らすと正しかったチャイコフスキー新し態度様式を自らの糧として、作曲家として成長続けることができるようになっていたのである。弟のモデストは兄がロシア5人組一部作品のもつ「力と活気」に感銘受けていたと記している。しかし、非常に均衡のとれた人物であったチャイコフスキーは、ザレンバとルビンシテイン大事にしていた最高の音楽価値というものを完全に拒絶することもなかったのであるモデスト意見では、チャイコフスキーサンクトペテルブルク一団関係性は「2つ友好的な隣国の間に居る状態(中略)同じ土俵立てるように注意深く準備怠らない一方両者異な関心嫉妬深く警戒している」ようであったという。

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リムスキー=コルサコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:59 UTC 版)

管弦楽法」の記事における「リムスキー=コルサコフ」の解説

リムスキー=コルサコフは、色彩的な管弦楽法大家である。その作品さることながら著書管弦楽法原理』が後世作曲家与えた影響多大であり、その中にはラヴェルドビュッシーなども含まれる極めて教科書オーソドックスなリムスキー=コルサコフによって、管弦楽全ての楽器対等な地位を得るに至ったとされる直弟子であったレスピーギストラヴィンスキーも、それぞれ管弦楽法大家として知られる。特に、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフの理論受け継ぎつつも、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』などにおいてさらに色彩的な技法開拓し、これらを『春の祭典』によって昇華させた。

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リムスキー=コルサコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)

チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「リムスキー=コルサコフ」の解説

ピョートル・チャイコフスキー」および「チャイコフスキーとロシア5人組」も参照 1884年44歳となるピョートル・チャイコフスキー1878年結婚失敗以来悩まされてきた社交嫌いと落ち着きのなさを表に出すようになってきており、それによってロシア西ヨーロッパ中を巡る旅に出る頻度増加していた。1884年3月にはロシア皇帝アレクサンドル3世彼にウラディーミル勲章英語版)(第4位)を与えた世襲制であるこの貴族階級得て、さらに皇帝チャイコフスキー作品私的に鑑賞することが決まった皇帝からの受勲公的に認められたという可視的証明となり、チャイコフスキー婚姻状況に絡む恥辱から立ち直るのを助けるものだった1885年1月サンクトペテルブルクハンス・フォン・ビューロー指揮の下、組曲第3番成功収めたことで、彼の心の中では完全な回復終わっていたのかもしれないチャイコフスキーパトロンナジェジダ・フォン・メック宛てて次のように書き送っている。「かつてこれほどまでの大成功を目にしたことがありません。目にしたのは客席全体感動し、私に感謝する様子だったのです。このような瞬間芸術家の生涯彩る最上の装飾です。これがあるからこそ生きて仕事をする価値があるのです。」各紙一様に好意的であったいまだに外部での付き合い軽蔑感を抱いていたものの、チャイコフスキー2つ理由から社交の場に出るようになっていた。ひとつは自らの名声高まっていたこと、もうひとつロシア音楽広めることを自らの義務考えていたことである。この目的のために、彼は自らの門下巣立ちモスクワ音楽院院長になっていたセルゲイ・タネーエフ力を貸し学生試験同席した幾度かにわたり様々な職員敏感な関係を取り決めたりした。また、チャイコフスキー1889年から1890年にかけてのシーズンにはロシア音楽協会モスクワ支部支部長務めている。彼は在職中ヨハネス・ブラームスアントニン・ドヴォルザークジュール・マスネといった国際的な著名人数多く指揮者として招いている。チャイコフスキーは自らの作品客演指揮者として役割両面からロシアの音楽普及行った1887年1月モスクワボリショイ劇場行われた自作オペラチェレヴィチキ』の初演において、彼は急遽最初3回代打として指揮台上ることになった自作指揮を自ら行うことがロシア国外における成功の鍵にある程度はなってくると考えていた彼は、短くとも10年来にわたり指揮習得したい考えていたのだった。『チェレヴィチキ公演期間1年のうち、チャイコフスキーヨーロッパ中、ロシア中でひっぱりだこであったお蔭で生来のあがり症を克服でき、自信弾みをつけることができたのであるチャイコフスキーとリムスキー=コルサコフの関係性1887年11月彼のサンクトペテルブルク訪問までに変遷たどっていた。ロシア5人組一員であったリムスキー=コルサコフは作曲家としては本質的に独学であったチャイコフスキー学校教育受けていたこと、そして5人組信奉する音楽の哲学賛同しなかったことを背景に、リムスキー=コルサコフは彼に疑い眼差し向けていた。しかし、1871年サンクトペテルブルク音楽院教授として任用されることになったリムスキー=コルサコフは、その役割を担うには自分備え足りないと知ることになる。また同時に彼の作曲活動袋小路に陥っており、自らの創作の道がそれ以上先に続かないのであることを認識したであった。彼は自らの状況かいつまんで手紙したためチャイコフスキー送り何をすべきなのかと問うた。手紙はその痛ましさによりチャイコフスキーの「心を深く動かし驚かせた」 。後にチャイコフスキーがフォン・メックに伝えたとおり「もちろん彼に勉学必要だった。」 1871年から1874年にかけて音楽院教壇に立つ傍ら、リムスキー=コルサコフは徹底的に西欧作曲技法基礎をさらい、アカデミックな訓練作曲家としての成功に及ぼす価値確信する至ったチャイコフスキー態度翻したリムスキー=コルサコフを尊敬すべき仲間ととらえるようになり、大親友とはいかないまでも親し間柄はなった5人組他のメンバーがリムスキー=コルサコフの態度変化に対して敵意示した際、チャイコフスキー道徳的な態度で彼を支え続け、リムスキー=コルサコフの行い全面的に称賛すること、また彼の芸術対す謙虚さ個性強さ両方感心していることを伝えたのである。また1876年以来チャイコフスキーサンクトペテルブルク訪れた折にはリムスキー=コルサコフの家に立ち寄るのが常であった。ある時にはチャイコフスキーからモスクワ音楽院院長してやってもいいと申し出があったが、これはリムスキー=コルサコフが辞退している。 チャイコフスキー称賛はリムスキー=コルサコフの作品へと及んだ。彼はリムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』を「楽器法途方もなく偉大な作品」と考え、その作曲者を「今日最大巨匠」と呼んだのであるチャイコフスキー日記の中で次のように明かしている。「[リムスキー=]コルサコフの『雪娘』に目を通して彼の熟達ぶりに驚かされるばかりか、(恥ずかしながら認めると)妬ましささえ覚えた。」

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「リムスキー=コルサコフ」を含む「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事については、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の概要を参照ください。

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