デューラーの木版画
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「犀 (木版画)」の記事における「デューラーの木版画」の解説
モラヴィア出身の商人で、印刷業者でもあったヴァレンティン・フェルナンデスはサイがリスボン到着後すぐに見に行き、1515年6月にニュルンベルクに住んでいた友人にサイのことを書いた書簡を出している。ドイツ語で書かれた原本の書簡は現存していないが、イタリア語に翻訳された写しがフィレンツェ国立中央図書館に残されている。同じ頃に筆者不明の書簡が、同じく作者不明のサイのスケッチとともにリスボンからニュルンベルクへと送られた。デューラーはこの書簡とスケッチをニュルンベルクで見ている。この書簡とスケッチをもとに、デューラーは自身で一度もサイを見ることなしに、ペンとインクによるスケッチを2枚描き上げた。そして2枚目のスケッチから、構図を左右逆にして木版画が制作されたのである。 この木版画にはドイツ語の説明書きがあり、そこには大プリニウスの著作からの引用が含まれている。 西暦1513年5月1日(原文ママ)に、偉大なるポルトガル王マヌエルによってインドからサイと呼ばれる動物がもたらされた。以下は正確な説明である。小さな斑点があるカメのような色合いで、身体の大部分は分厚いウロコで覆われている。ゾウと同じくらいの大きさだが脚はより短く、傷つけるのは難しい。鼻先には強靱で尖ったツノがあり、石に擦りつけて鋭く磨き上げる。サイはゾウの天敵である。ゾウはサイを恐れており、両者が遭遇するとサイはツノを振りかざして突進し、ゾウの腹部に食らいつく。ゾウはこの攻撃から身を守る術を持たない。サイはほぼ完璧な装甲を持ち、ゾウはサイに危害を加えることはできない。サイは頑健、獰猛で、狡猾な動物である。 デューラーの木版画は実在のサイを正確に表現したものではない。デューラーはサイを、喉当てや胸当てが鋲止めされた鎧のような強固な装甲に覆われた動物として描いた。不正確な箇所は他にも背中前方の捻れた小さなツノ、うろこに覆われた脚、身体が極端に短いことなどが挙げられる。このような特徴は本物のサイには見られない。しかしながら、全身を守る西洋の鎧がゾウに立ち向かうサイをモデルとしてポルトガルで作製されたかも知れず、デューラーが描いたこのような表現は、逆説的に鎧の描写として正確であった可能性もある。もしかしたらデューラーが表現した「鎧」はインドサイの厚い表皮のしわを再現したものか、あるいは他の明らかな誤り同様にデューラーの単純な誤解か想像の産物だったものかも知れない。さらにデューラーはサイがウロコで覆われているかのような質感で表現している。これはデューラーがインドサイのざらついた、ほぼ無毛な表皮を表現しようと試みたのかも知れない。上脚部と肩部にはイボ状の突起物が見られるが、これはインドからポルトガルへの4か月の輸送中に狭い場所に閉じこめられていたために罹病した皮膚炎をそのまま表現している可能性がある。 デューラーがニュルンベルクに滞在していたときとほぼ同時期にアウクスブルクに滞在していたドイツ人画家、版画家ハンス・ブルクマイアーが作製した、もう一枚のサイの木版画がある。当時ブルクマイアーはリスボン在住の商人と書簡の遣り取りをしていたが、デューラーと同様にサイに関する書簡やスケッチを目にしたのか、実際にポルトガルでサイを観察したのかどうかは分かっていない。ブルクマイアーの木版画はデューラーのものと比較するとサイの実物に近い。デューラーの木版画に見られる架空の2本目のツノなど余計な付け足しは見られず、サイを拘束し繋ぎとめていた脚鎖が表現されている。しかしながらデューラーの作品はより迫力のあるもので、ブルクマイアーの作品の評判を上回った。ブルクマイアーの木版画のコピーが1枚だけしか現存していないのに比べ、デューラーのオリジナルの木版はその後も何度もコピーされている。デューラーは最初の木版画を自身で作製し、その木版画には5行の説明書きが添えられている。この説明書きが、1528年にデューラーが死去した後も何度もコピーされ作製された木版画と、デューラーのオリジナルの木版画とを識別する相違点である。1540年代に作製された2種類の木版画や16世紀後半に作製された2種類の木版画 では説明書きが6行となっている。1620年ごろに、単色刷りで1枚の木版しかなかったデューラーの木版画に明暗を与える(キアロスクーロ)ことを目的として追加の木版が製作され、この木版を用いてウィリアム・ジャンセンが作製した版画をアムステルダムで見ることができる。デューラーの手によるオリジナルの木版はサイの脚部に虫食い穴ができ、ひび割れてしまったが、その後も長く使い続けられた。 『犀』はサイの描写に誤りが多かったにもかかわらず非常に有名な作品で、これは18世紀後半になって正確にサイが描写されるまで続くことになる。デューラーは『犀』を製作するにあたって、美しく緻密な作品ができる銅版を用いたエングレービングではなく、おそらく故意に木版画を選択しており、これは木版画のほうが大量印刷に適していたためと考えられている。この作品はゼバスチアン・ミュンスター(en:Sebastian Münster)の『コスモグラフィア(Cosmographiae)』 (1544年)、コンラート・ゲスナーの『博物誌 (en:Historiae animalium (Gesner))』(1551年)、エドワード・トプセル(en:Edward Topsell)の『四足獣の歴史(The History of Four-footed Beasts)』(1607年)など、多くの博物学者、地理学者たちの著作に引用されてきた。他にデューラーの『犀』をもとにしたことが明白なのは、1536年7月にアレッサンドロ・デ・メディチのサイをモチーフとしたエンブレムである。このエンブレムには「勝利なき帰還なし(Non buelvo sin vencer、古スペイン語)」というモットーも刻まれている。パリにはデューラーの『犀』をベースとした彫刻がある。フランス人彫刻家ジャン・グージャンがデザインした高さ21mのオベリスクで、1549年に新王アンリ2世の行幸を祝ってサン・ドニ通りにあるセパルカー教会の正面に立てられた。また、『犀』は、ライデン大学教授で、動物学者、医学者のヤン・ヨンストンの『動物図譜』にも掲載された。『動物図譜』は江戸時代の日本にも伝わり、谷文晁が模写をした『犀図』が残されている。谷文晁よりも早く、幕府侍医・蘭学者の桂川甫周は1782年に拡大模写した彩色図を作成し、漢文の説明を加えている。 『犀』の評価とそれをもとに派生した作品の数は、生きたサイがヨーロッパに輸入され、大衆の目に触れる機会が多くなった18世紀中盤以降低いものとなり、サイのイメージはより正確なものに置き換えられることとなる。ロココ期のフランス人画家、版画家ジャン=バティスト・ウードリー (Jean-Baptiste Oudry)は、17年間ヨーロッパ中を巡業したインドサイのクララを1749年に実物大で描き、イギリス人画家ジョージ・スタッブスも、1790年頃にロンドンで大きなサイの絵画を描いている。この2枚の絵画はデューラーの木版画より正確で、人々のサイに対するイメージはそれまでのデューラーの作品によるものから、実物のサイのイメージへと徐々に変化していった。特にウードリーの絵画は、フランス人の博物学者ビュフォンの著書で広く模倣された『一般と個別の博物誌』に記載されている図像に大きな影響を与えている。 1790年にはスコットランド人の旅行家、紀行文作家ジェームス・ブルース(en:James Bruce)がアフリカを流れるナイル川を扱った紀行文『Travels to discover the source of the Nile』で、「あらゆる誤りが取り除かれたのは喜ばしいことだ」「サイが奇怪で間違った姿で描かれ続けたのはデューラーの作品が原因である」として『犀』を非難している。しかしブルースがデューラーの『犀』が誤りであるとしたのはアフリカのシロサイとの比較においてであり、インドサイとシロサイとではその外見が明白に異なっている。従ってシロサイとの比較によってデューラーを非難することが適当とは言えないのは明らかである 。 日本でも『薔薇の名前』の作者として有名な記号学者のウンベルト・エーコは、デューラーが描いた「ウロコや重なり合った鎧のような装甲」は、たとえサイをよく知る人であってもサイを表現する上で必要な要素であり、「このような様式化されたともいえる「記号」だけが、人々にとって「サイ」を理解する象徴となりえる」とした。さらにエーコは実在のサイの表皮が見た目よりも荒く、デューラーが『犀』に表現した鎧やウロコは見た目以上のものを表現していると指摘している。 1930年代までデューラーの『犀』は、サイを正確に表現しているとしてドイツの学校教科書に採用されていた。今でもドイツ語ではインドサイは「装甲に覆われたサイ(Panzernashorn)」と言われている。『犀』は未だに芸術への影響は大きく、サルバドール・ダリが1956年に製作した彫刻『Rinoceronte vestido con puntillas』が、2004年からスペインのマルベーリャのプエトロ・バヌースに展示されている。
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