その他支持者とは? わかりやすく解説

その他支持者(契丹説、不明説)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「その他支持者(契丹説、不明説)」の解説

鳥山喜一 鳥山喜一は、『旧唐書』には大祚栄の父とされる乞乞仲象の名前は出てこないこと、乞乞仲象は胡名であるが、大祚栄漢名であることなどを理由乞乞仲象大祚栄父子関係にないそれぞれ別個の存在という立場であり、乞乞仲象舎利は『遼史巻一一六国語解から、契丹族において、権威的な頭飾を欲した民が、牛駝十頭・馬百疋を納める代償として得られた官称であることが分かり乞乞仲象は「恐らく契丹系の豪民で、舎利として優越地位有していたものであった見られないか。それが契丹の乱に乗じて起こったので特に人種別をいわず、乞四比羽をいうのに、靺鞨註することとしたのであろう」として、乞乞仲象契丹人であるが、大祚栄白山靺鞨であり、高句麗隷属し漢名の大氏を名乗る家系属していた、と述べている。これについて森安孝夫は、「舎利契丹官職名みなして舎利乞乞仲象契丹人となし、これと大祚栄をまったくの別人考える説には賛成できない」と述べており、その理由を「中国史料には靺鞨にも舎利なる語を含む官名存在を示すものがあるし、また渤海の建国に、異民族である契丹人指導的な役割果たしたとは、この場合考えにくい」として、「大舎利乞乞仲象大祚栄とはおそらくは父子であり、(中略)父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当」と述べている。 萬歳通天中、契丹盡忠営州都督趙文翽反、有舎利乞乞仲象者、與靺鞨乞四比羽高麗餘種東走、度遼水、保太白山東北、阻奥婁河、壁自固。万歳通天(六九六年間に、契丹の(尽忠営州都督の趙文翽に反逆して彼を殺した。(この乱に乗じた舎利乞乞仲象は、靺鞨酋長乞四比羽や高(句)麗の遺民たちとともに東に移り遼水遼河)を渡って太白山長白山)の東北確保した。この地は奥婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き守りをしっかり固めていた。 — 新唐書渤海中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります新唐書/卷219#渤海 井上秀雄 井上秀雄は、『新唐書』渤海伝に、乞乞仲象舎利という官職保有していたと記されており、かかる事実から「舎利は『五代会要』巻三十渤海上に『有高麗別種舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也』とあるので、官名であることがわかる。また『遼史巻一一六国語解は『契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名舎利。』と記し舎利とは、権力誇示ができる頭巾欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られ官名であったことがわかる。したがって乞乞仲象は、契丹系の豪族であったといえるだろう」と述べている。しかし舎利契丹固有の官職みなして乞乞仲象契丹人とする説については批判的見解がある(上述)。 古畑徹 古畑徹は、「最大公約数取り高句麗遺民で、出自高句麗人か粟末靺鞨人かは不明、という理解留めおきたいそもそも王家種族系統など、その国家種族系統とは無関係で、これを争うこと自体ナンセンスである」「高句麗であろうか、靺鞨であろうか。あるいは朝鮮民族につながる国家であろうか、それとも漢族満族などの中国諸民族につながる国家であろうか。私はこのどれでもなく、またどれでもあると考える。渤海複数種族によって構成され多種国家であることは、いうまでもない」「どの種族渤海史という舞台の上主役務めたのであり、そうした主役たちがそれぞれのあり方のもとに活動する多種国家として渤海捉えるべき」と述べている。また古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、金・清建国した満族などの中国東北地方少数民族その先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗渤海中核となった人々その後の変遷経て漢族なかにも入りこんでいることが明らかである。したがって高句麗渤海とも現在の国民国家枠組みでは把握しきれない存在あり、かつそれを前提とした一国史観歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と述べている。 酒寄雅志 酒寄雅志は、「大祚栄出自については、議論分かれるところ」であるが、「韓国における大祚栄出自にたいする認識は、高句麗人とする点では共通しているが、韓圭哲氏(慶星大学)は松花江出身高句麗人(『渤海対外関係史』)とし、宋基豪氏(ソウル大学)は靺鞨系の高句麗人とする(『渤海政治史研究』一潮閣、1995年)など若干相違がある。そうしたなかで盧泰敦(朝鮮語版)氏(ソウル大学)は大祚栄靺鞨血統受け継いだ人物としている点は興味深い(「渤海國住民構成渤海人의族源」『韓國古代國家社會』一潮閣、1985年)」と述べている。 佐藤信 佐藤信は、「古代渤海(六九八〜九二六)は、今日中国・朝鮮北朝鮮)・ロシア領域にまたがる国家であり、北方民族靺鞨族やかつての高句麗末裔などにより建国されたといわれ、近代国民国家枠組み越えた存在」「渤海歴史自体が、今日国境線や漢(中国民族朝鮮(韓)民族北方民族といった民族的な境界越えた同時代的な視点から検討されなくてはならない」「今日国境超越した存在であった渤海渤海との関係史を語るとき、現代一国立場だけを強調することは合理性を欠く」と述べている。 河内春人 河内春人は、「渤海にとって粟末靺鞨当初からの主力構成員であり、乞四比羽率いられ集団粟末靺鞨とみなしうる。そうであるとすれば乞四比羽とその一団は突地稽に率いられ靺鞨集団一部であった推測される。そして乞四比羽とともに行動した大祚栄もその近辺居住していたと考えられる高句麗滅亡によってその民は各地分散したが、大氏集団営州に内附した契丹靺鞨に分投した遺民とみなすのがもっと穏当であろう」と述べている。 布目潮渢 布目潮渢は、「六九六年、契丹中国侵入したとき、この騒動乗じて靺鞨系の高句麗人である大祚栄が、遼河を東にわたって震国建てた(六九八年)。震とは、活動開始意味する易経』の卦の一つで、中国教養に基づく命名である。このころになると安東都護府遼東で影が薄く、立ちあがる好機であった震国渤海国改称したのは、七一三年、玄宗皇帝開元元年のことである」「六九八年東北震国建てた靺鞨系の高句麗人である大祚栄は、唐から渤海郡王に封ぜられたのに基づき、七一三年に渤海国改称した玄宗朝は、渤海国では高王大祚栄武王大武芸文王大欽茂三代にわたる」と述べている。 森公章 森公章は、「渤海七世紀末に高句麗遺民朝鮮半島北部から中国東北部にかけて靺鞨諸族を支配下組み込みながら建国した」と述べている。 河上洋 河上洋は、「自らの手に成る記録が全く残っていないこともあって、『海東の盛国』と謳われたにもかかわらずその実体はよくわかっていない。そもそもその建国者の出自からしてこれを高句麗人とする説と靺鞨人とする説があり、未だに帰一するところがないのが現状である」「『旧唐書』記事でわかるように、渤海建国中核成したのは亡命或いは唐の徒民政策により営州居住させられ高句麗人、靺鞨人の連合勢力であったこのうち靺鞨人とは『隋書』にいう靺鞨七部のうちの何部に当たるのだろうか先に触れたように『新唐書』渤海伝に『渤海、もと粟末靺鞨にして高麗附す者、姓は大氏』とあり、記事当否はともかく粟末部一部高句麗行動を共にし、渤海の建国にも関わっていたことは間違いなかろう」「『旧唐書』靺鞨伝に『其れ白山部素より高麗附す』と記されるように、白山部も唐代に入って高句麗従属するようになっていた。唐と高句麗戦役に際してしばしば多数靺鞨人が高句麗軍中存在したことが伝えられているが、これらが粟末部及び白山部であった考えられる。そしてこの白山部もやはり渤海建国一役買っていたと思われる。なぜなら、渤海建国時の根拠地現在の吉林省敦化附近とされているが、この敦化地方がもと白山部の住地であった考えられるからである」「かくして高句麗遺民に粟末、白山靺鞨協力得て敦化地方建国した渤海は、そこを拠点にして牡丹江中流域すなわち上京地方、及び東の図們江流域すなわち中京東京地方勢力広げ、これが渤海中心基盤成した」「建国後初代大祚栄時代に『靺鞨の衆及び高麗余燼稍稍これに帰す』とあり、さらに第二大武芸時代には『新唐書』渤海伝に『子武芸立つ。土宇を斥大し東北諸夷これに臣となる』とあるように、次第周辺高句麗遺民靺鞨諸部がこれに帰服するようになる」「高句麗人と粟末、白山靺鞨人を中核として上京中京東京を含む地域根拠地成立した渤海」と述べている。 李成市 李成市は、「高句麗渤海との王朝相互間の継承関係は、今日残され資料をもって明らかにすることに限界があり、不明せざるをえないまた、渤海高句麗政治拠点としていた地域を必ずしも重視しておらず、しかも北部政治拠点大幅に移している。しかしながら両者おおよそ同じ地域領有していた王朝であることに違いはない」「渤海支配集団中核となった粟末靺鞨は、かつて、穢(濊)族と呼ばれた民族集団にほぼ該当し、この穢族は二世紀はじめ頃より、高句麗政治的に従属していた民族集団であるとみられる。とすると、渤海支配集団その周辺靺鞨諸族は、かつての穢族の系譜を引く民族集団かなりの割合占めていたことになるであろう」「これまでの韓国北朝鮮初め中国ロシア日本など各国渤海史に向けられ関心を、自国渤海研究正当化や、政治イデオロギー化するのでなく、またそれらの関心相互に排除することなく多面的な視角導入するという思考転化させ、再構築する道が求められているのではないかと思う。かつて旧ソ連歴史学者渤海文化多様性異種混淆性を強調したように、渤海史をとらえる際に、そのような多元的な視角求められているのであろう。あえて、楽観的な展望述べるならば、今こそ渤海史は、渤海史に熱い眼差し注いできた諸国諸民族未来を語り合うコミュニケーションの場になりうるのではないか期待している」と述べている。

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