関係史
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「モンゴルと北朝鮮の関係」の記事における「関係史」の解説
両国間の外交関係が樹立したのは1948年10月15日のことである。モンゴルはソビエト連邦に次いで2番目に北朝鮮を国家承認している。モンゴルは1950年から1953年にかけての朝鮮戦争に直接参戦はしなかったものの、中国・北朝鮮連合軍に対して支援を行っており、北朝鮮の戦後復興にも貢献した。1953年末に署名された援助合意に基づいて、モンゴル政府は北朝鮮に10,000頭もの馬を送った。 朝鮮戦争後の1960年代から1970年代にかけてモンゴルは400名以上の戦争孤児を受け入れ養育した。1960年代から1980年代半ばにかけての中ソ対立において、モンゴルは一貫して親ソ派の立場を取ったのに対して、北朝鮮は通常ソ連よりも中国に近い立ち位置を取ったため、モンゴル - 北朝鮮間の二国間協力も大きく妨げられることとなった。これらの立場の違いが時として様々な形で軽度の摩擦を引き起こすことがあった。 後の1982年に中ソ関係が改善され、1986年にはモンゴルと北朝鮮の間で最初の友好協力条約が結ばれた。 また1988年には当時北朝鮮の最高指導者であった金日成がモンゴルを訪問した。 しかしながらモンゴルの共産主義政権が崩壊すると、その関係は緊張したものとなった。 1995年に両国は友好協力条約を破棄し、1999年には韓国の金大中大統領によるモンゴル公式訪問をきっかけに北朝鮮はウランバートルの大使館を閉鎖した。なおこれは韓国大統領による初のモンゴル公式訪問であった。 モンゴルはそれまでに2名の北朝鮮外交官をスーパーノート(偽米ドル札)を流通させようとしたとして国外追放していた。 その後、モンゴルは北朝鮮との関係改善を目的に北朝鮮政策の強化を始めた。 2002年には北朝鮮の白南淳が14年ぶりとなる外務大臣によるモンゴル訪問を実施した。 最近のハイレベルな二国間訪問は2007年に行われた。このとき最高人民会議委員長の金永南は3度目のモンゴル訪問を果たした。金は1985年と1988年にもモンゴルを訪問したことがあった。 非公式には北朝鮮からの訪問者はモンゴルの経済改革に対して著しい興味を示すという。モンゴル側の見方によれば、モンゴルは同じ非西欧国の仲間であり、また共産圏において共通の経験をしているため、北朝鮮はモンゴルの経済発展を脅威とは見なしていないとされる。 モンゴルが自由市場資本主義を北朝鮮に広めることはモンゴル自体の利益にもつながる。 潜在的には韓国からヨーロッパを繋ぎうる重要な鉄道ルートであるシベリア鉄道は中国とモンゴルの国境にあるモンゴル縦貫鉄道で経由できる。北朝鮮が経済自由化を行えば、韓国から北朝鮮国境を越えての輸送が可能になることで、鉄道ルート上の大きな障害が消えることになり、モンゴルに経済的利益をもたらすであろうとされる。 脱北者 (北朝鮮難民) は両国政府にとってデリケートな問題である。 2005年には韓国の慈善団体が、ウランバートルから40km離れたある場所にて、モンゴル政府より1.3km2の土地を割り当てを受け、脱北者向けの難民キャンプを開設したとされる。 しかしながら2006年11月時点でモンゴルの首相のミェーゴンボ・エンフボルド(英語版) は難民キャンプの存在を公式に否定している。 ある研究者の推計によれば、政府間合意に基づき軽工業やインフラ整備事業に従事する出稼ぎ労働者(英語版)にまぎれて、毎月500名の脱北者がモンゴル国内に入ってきているという。 2013年にモンゴルの大統領のツァヒアギーン・エルベグドルジは北朝鮮を訪問し、特に石油精製の分野において2国間の経済的な繋がりを強化すると発表した。
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1930年7月、駐日イラン公使館が開設される。第二次世界大戦により日本・イラン間の国交および公使交換が停止されたが、いずれも戦後に再開され、1955年2月、公使館が駐日イラン大使館に昇格。1979年2月、革命によりイランの王制が崩壊したが、日本との国交は継承され駐日大使館も閉鎖されることなく現在に至っている。
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