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モンゴル国

モンゴル国
Mongolia
通貨単位:トクリク/モンゴ
Mongolian Tugrik / Mongo
1トクリク=100モンゴ
マップ
50 モンゴ (1981)
20 モンゴ (1981)
15 モンゴ (1981)
10 モンゴ (1981)


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モンゴル国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/28 12:41 UTC 版)

世界 > アジア > 東アジア > モンゴル国
モンゴル国
Монгол Улс
Monggol ulus.svg
モンゴルの国旗 State emblem of Mongolia.svg
国旗 国章
国の標語: なし
国歌: Монгол Улсын Төрийн Дуулал
モンゴルの位置
公用語 モンゴル語
首都 ウランバートル
最大の都市 ウランバートル
政府
大統領 ツァヒアギーン・エルベグドルジ
首相 スフバータル・バトボルド
面積
総計 1,565,000km218位
水面積率 0.6%
人口
総計(2008年 2,671,000人(135位
人口密度 2人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 6兆1,303億[1]トゥグルグ
GDPMER
合計(2008年 52億[1]ドル(152位
GDPPPP
合計(2008年 93億[1]ドル(150位
1人あたり 3,541[1]ドル
建国 不明
通貨 トゥグルグMNT
時間帯 UTC (+7 ~ 8)(DST: (+8 ~ 9))
ISO 3166-1 MN / MNG
ccTLD .mn
国際電話番号 976
PREFIXは JT JU JV

モンゴル国(モンゴルこく、モンゴル語: Монгол Улс)、通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家。東と南を中華人民共和国(中国)内モンゴル自治区と、西を中国・新疆ウイグル自治区と、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国首都ウランバートル

モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下において中国語外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。これに対し、南部の一帯が内蒙古で、現在は中国領となっており、「蒙古族」(中国国籍のモンゴル人)のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置かれている。

目次

国名

正式名称は、モンゴル語キリル文字表記で Монгол Улс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写Mongol Uls

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル

モンゴル語名「モンゴル・オルス(Монгол Улс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス(Улс)」は「国」を意味する。モンゴルの民族名の語源は明らかではないが、モンゴル民族のアイデンティティーの基礎が出来上がったのはチンギス・ハーンのモンゴル帝国時代と考えられる。

歴史

19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚えてはいたが、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。

1911年辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちはからの独立を宣言。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシアが中国への配慮から、内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

1917年ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には自治を撤廃するが、1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートルチョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した。こうして立憲君主制国家としてスタートすることになった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノらブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。

モンゴル人民共和国は、1924年 - 1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。なお、モンゴル人民革命党共産党であったことは一度もなく、「モンゴル共産党」への改名申請を時期尚早としてソ連に却下された経緯がある。

モンゴルのスターリンと呼ばれ軍人スフバートルと共に革命の中心メンバーの一人であり、1930年代より指導者であったチョイバルサンは、当初バラーディンらブリヤート知識人が唱えたラテン文字化では無く、モンゴル語のキリル文字使用を決める。これによって革命前は0.7%だった識字率が1960年代には文盲の絶滅を宣言する。チョイバルサン時代にスパイとして粛清された人物としてはゲンデン首相が有名である。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

近代のモンゴルと外国との戦争は第二次世界大戦中、1939年に現在の中国領であるノモンハン(モンゴル語ではハルヒンゴル/ハルハ河)で日本軍満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行っていないが中国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。また、中華民国は1946年1月にいったんモンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、中華民国(台湾)は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側5ヶ国と、日本など西側13ヶ国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。

1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により当初の趣旨が曲げられ、アメリカ型の極端な資本主義の導入につながったとの見解もある[要出典]。資本主義化後15年を経過した現在では、貧富の差の拡大が国家的問題となっている。また社会主義時代から官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。

ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、社会主義時代に全く省みられなかったチンギスハン時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。

政治

社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。




  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ IMF
  3. ^ 内閣府による県民経済計算
  4. ^ 『マンホールチルドレンはなぜ生まれたか』2007年11月13日付配信 日経ビジネスオンライン
  5. ^ a b週刊エコノミスト』2007年10月16日 前川愛「朝青龍問題 ナショナリズム高揚の反映 現代のモンゴルを読み解く」
  6. ^ Searchina 2009年7月21日 モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
  7. ^ a b c d e f 極右化するモンゴルの反中感情、強まる警戒感AFPBB News』2010年9月1日
  8. ^ [2]
  9. ^ 中国とモンゴル:中国を毛嫌いするモンゴル人JBpress 2011.03.18
  10. ^ 歴代外国人相撲力士の出身の多い国 外務省 世界いろいろ雑学ランキング


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