「開国」までの動きと「鎖国」の終焉とは? わかりやすく解説

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「開国」までの動きと「鎖国」の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:48 UTC 版)

鎖国」の記事における「「開国」までの動きと「鎖国」の終焉」の解説

18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国イギリスフランスアメリカ合衆国などの艦船日本に来航し、交渉行ったが、その多く拒否された。しかし、1853年7月8日には浦賀アメリカマシュー・ペリー率い黒船来航し、翌1854年3月31日には日米和親条約締結され、終に「開国」に至ったその後日米修好通商条約1858年)を初めとする不平等条約続々締結され、「鎖国」は崩壊したのである1778年安永7年)、ヤクーツク商人パベル・レベデフ=ラストチキンアッケシ場所に来航松前藩に、交易求めた拒否された。幕府には報告されず。 1787年天明7年)、フランス王国ラ・ペルーズ探検隊日本近海航海千島列島琉球列島探検した宗谷海峡国際名称ラ・ペルーズ海峡は、彼にちなんだのである1791年寛政3年)、米国探検家ジョン・ケンドリックが2隻の船と共に紀伊大島到着11日滞在した日本訪れた最初米国人ロシアによる開国要求1792年寛政4年アダム・ラクスマン漂流大黒屋光太夫ら3名を連れて根室来航し上陸通商交渉求めるも徳川幕府拒否。しかし、長崎への入港許可証である信牌与えた1804年文化元年9月バルト・ドイツ人アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン率いたロシア世界一周遠征隊が漂流津太夫ら4名を連れ信牌持って長崎来航特使ニコライ・レザノフ通商求め翌年春まで幕府交渉するものの最終的に拒否される1806年文化3年)「文化薪水給与令」が出される1806年文化3年)〜1807年文化4年)、レザノフ部下であるフヴォストフが通商拒否され報復のため、樺太大泊久春古丹利尻択捉島紗那会所内保番屋襲撃フヴォストフ事件文化露寇)、アイヌの子供ら数名ロシア人拉致され中川五郎治と佐兵衛シベリア強制連行される。ロシア帝国政府は不関与であるものの、この事件日露間の緊張高まり幕府蝦夷地幕府直轄領とし警固防衛)に乗り出すきっかけとなった薪水給与令1年取り消される1811年文化8年ヴァシーリー・ゴロヴニーン大尉国後場所の管轄する鎖国中の国後島不法上陸警固に就いていたアイヌ和人捕らえられその後2年拘留された(ゴローニン事件)。 1812年文化9年8月ディアナ号国後島来航する日露間で身柄交換交渉が行われるが、日本側の拉致被害者である中川五郎治歓喜漂流民6名が脱走したために交渉決裂帰途ディアナ号艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)は報復として附近航行していた歓世丸を襲撃高田屋嘉兵衛アイヌ船員数名拉致勘察加強制連行翌年6月まで抑留するアイヌ船員数名抑留地で命を落とし帰らぬ人となった1813年文化10年9月ディアナ号ゴローニン解放交渉のため、日本人漂流民の久蔵伴い箱館来航する。なおこの時、ロシア帰化した漂流善六ロシア側の通訳として使節同行していた。 フランス革命戦争とナポレオン戦争余波1797年寛政9年)から1809年文化6年)にかけて、本国フランス占領されてしまったため、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ依頼で数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易行った1808年文化5年)、オランダ敵対関係にあった英国帆走フリゲート・フェートン号が、オランダ国旗を掲げ長崎入港フェートン号事件起こすその後英国船出現が相次いだ1825年文政8年)、徳川幕府異国船打払令出し強硬政策転換1830年文政13年)、徳川幕府領有宣言をしていたもの無人島となっていた小笠原諸島父島ナサニエル・セイヴァリー上陸入植した1837年天保8年商船モリソン号音吉を含む漂流民を日本送還するために浦賀来航したが、異国船打払令に基づき日本砲台砲撃したモリソン号事件)。この事件後、幕府内部でも異国船打払令対す批判強まった1842年天保13年アヘン戦争における清朝敗北による南京条約締結驚愕した徳川幕府は、政策転換し遭難した船限り給与認め天保薪水給与令発令した1844年天保15年)、フォニエル・デュプラン大佐率いフランス海軍遠征隊が琉球王国来航通商求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父通訳那覇残った1844年8月14日弘化元年7月2日)、オランダ軍パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世将軍宛の親書携えていた長崎入港。この親書シーボルト起草よるもので、開国求めた幕府はこれを拒否した1845年弘化2年)、捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助しマーケイター・クーパー船長浦賀への入港許可され浦賀奉行対面した1846年7月20日弘化3年5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて開国交渉のために浦賀入港した。しかし、条約の締結浦賀奉行拒否され数日滞在退去した。浦賀アメリカ軍艦出現したことを受けて幕府では無二念打払令復活検討された。 1846年7月24日弘化3年6月2日)、フランスセシル提督長崎来航した上陸拒否された。このとき、那覇に留まっていたフォルカード神父伴っていた。 1848年弘化5年嘉永元年)、ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難装って利尻島上陸したその後長崎送られ崇福寺大悲庵に収監され本国送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話教えた帰国後は、日本情報アメリカ合衆国本土伝えた1849年4月17日嘉永2年3月27日)、ジェームス・グリン大尉艦長務め米国帆走戦闘スループ・プレブル(USS Preble)が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎来航軍事介入可能性ほのめかしつつ、交渉行った結果船員ラナルド・マクドナルド解放された。帰国後、グリン米国政府対し日本外交交渉によって開国させること、また必要であれば強さ」を見せるべきとの建議提出した彼のこの提案は、マシュー・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった1849年嘉永2年)、英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀来航し地誌調査行ったマリナー号には音吉通訳として乗艦していた。音吉日本とのトラブル避けるため、中国人であると偽っていた。 1853年嘉永6年マシュー・ペリー率いアメリカ艦隊来航開国要求した蒸気船来航はこのときが初めであった1854年嘉永7年安政元年ペリー再来航し日米和親条約締結下田函館開港し鎖国が終わる。 1858年安政5年タウンゼント・ハリス徳川幕府日米修好通商条約締結し鎖国が完全に終わる。 追ってアメリカ同様の不平等条約が、フランス・イギリス・ロシアとの間にも結ばれさらにはオランダに対しても、改め日蘭和親条約ならびに日蘭修好通商条約締結により関係が継続された。これらの条約によってオランダ人長崎市街への出入り許可された。1856年安政3年)には出島開放と共に出島日本人役人廃止され3年後1859年安政6年)には、出島にあったオランダ商館閉鎖されたため、オランダ人貿易横浜など日本各地へと移りオランダ人貿易独占消滅することとなった。これにより鎖国終焉迎えた。 なお、学問商業目的海外渡航解禁されたのは1866年5月21日慶応2年4月7日)のことであったまた、外国人居住自由になるのは、正式に内地雑居認められる1899年明治32年7月16日である。 当初の「鎖国」の主目的であったキリスト教の禁止」は、日米修好通商条約において居留地における教会建設居留アメリカ人信教の自由認められたが、明治政府もしばらくは禁教政策続けており、日本人対す禁教解かれたのは1873年明治6年であった開国後オランダバタビア政庁機関紙『ヤパッシェ・クーラント』が洋書調所抄訳され、『官板バタヒヤ新聞』や『官板海外新聞』として一般不定期に販売された。やがてアメリカ新聞ソースとする『官板海外新聞別集』が出回った。これは南北戦争様子挿絵つきで伝えた鎖国体制崩壊徳川幕府命運尽きたことをも意味していた。ペリー来日から大政奉還による徳川幕府消滅まではわずか14年しかなかったのである

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