「開国」までの動きと「鎖国」の終焉
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「鎖国」の記事における「「開国」までの動きと「鎖国」の終焉」の解説
18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国、イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、その多くは拒否された。しかし、1853年7月8日には浦賀へアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船が来航し、翌1854年3月31日には日米和親条約が締結され、終に「開国」に至った。その後、日米修好通商条約(1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、「鎖国」は崩壊したのである。 1778年(安永7年)、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンがアッケシ場所に来航。松前藩に、交易を求めたが拒否された。幕府には報告されず。 1787年(天明7年)、フランス王国のラ・ペルーズ探検隊が日本近海を航海、千島列島、琉球列島を探検した。宗谷海峡の国際名称ラ・ペルーズ海峡は、彼にちなんだものである。 1791年(寛政3年)、米国の探検家ジョン・ケンドリックが2隻の船と共に紀伊大島に到着、11日間滞在した。日本を訪れた最初の米国人。 ロシアによる開国要求1792年(寛政4年)アダム・ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫ら3名を連れて根室に来航し上陸、通商交渉を求めるも徳川幕府は拒否。しかし、長崎への入港許可証である信牌を与えた。 1804年(文化元年)9月、バルト・ドイツ人のアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが率いたロシアの世界一周遠征隊が漂流民津太夫ら4名を連れ、信牌を持って長崎に来航。特使ニコライ・レザノフが通商を求め、翌年春まで幕府と交渉するものの最終的に拒否される。 1806年(文化3年)「文化の薪水給与令」が出される。 1806年(文化3年)〜1807年(文化4年)、レザノフの部下であるフヴォストフが通商を拒否された報復のため、樺太大泊の久春古丹や利尻、択捉島紗那の会所や内保の番屋を襲撃(フヴォストフ事件、文化露寇)、アイヌの子供ら数名がロシア人に拉致され中川五郎治と佐兵衛はシベリアに強制連行される。ロシア帝国政府は不関与であるものの、この事件は日露間の緊張が高まり、幕府が蝦夷地を幕府直轄領とし警固(防衛)に乗り出すきっかけとなった。薪水給与令は1年で取り消される。 1811年(文化8年)ヴァシーリー・ゴロヴニーン大尉が国後場所の管轄する鎖国中の国後島に不法上陸、警固に就いていたアイヌと和人に捕らえられ、その後2年間拘留された(ゴローニン事件)。 1812年(文化9年)8月、ディアナ号が国後島に来航する。日露間で身柄交換交渉が行われるが、日本側の拉致被害者である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂。帰途、ディアナ号艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)は報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃、高田屋嘉兵衛やアイヌ船員ら数名を拉致、勘察加に強制連行し翌年6月まで抑留する。アイヌ船員ら数名は抑留地で命を落とし、帰らぬ人となった。 1813年(文化10年)9月、ディアナ号がゴローニンの解放交渉のため、日本人漂流民の久蔵を伴い箱館に来航する。なおこの時、ロシアに帰化した漂流民善六がロシア側の通訳として使節に同行していた。 フランス革命戦争とナポレオン戦争の余波1797年(寛政9年)から1809年(文化6年)にかけて、本国がフランスに占領されてしまったため、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの依頼で数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行った。 1808年(文化5年)、オランダと敵対関係にあった英国の帆走フリゲート・フェートン号が、オランダ国旗を掲げ長崎に入港。フェートン号事件を起こす。その後も英国船出現が相次いだ。 1825年(文政8年)、徳川幕府は異国船打払令を出し、強硬政策に転換。 1830年(文政13年)、徳川幕府が領有宣言をしていたものの無人島となっていた小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸、入植した。 1837年(天保8年)商船モリソン号が音吉を含む漂流民を日本に送還するために浦賀に来航したが、異国船打払令に基づき日本側砲台が砲撃した(モリソン号事件)。この事件後、幕府内部でも異国船打払令に対する批判が強まった。 1842年(天保13年)アヘン戦争における清朝の敗北による南京条約の締結に驚愕した徳川幕府は、政策を転換し、遭難した船に限り給与を認める天保の薪水給与令を発令した。 1844年(天保15年)、フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の遠征隊が琉球王国に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。 1844年8月14日(弘化元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した。 1845年(弘化2年)、捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され、浦賀奉行と対面した。 1846年7月20日(弘化3年閏5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将は戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。 1846年7月24日(弘化3年6月2日)、フランスのセシル提督が長崎に来航したが上陸を拒否された。このとき、那覇に留まっていたフォルカード神父を伴っていた。 1848年(弘化5年/嘉永元年)、ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って利尻島に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた。 1849年4月17日(嘉永2年3月27日)、ジェームス・グリン大尉が艦長を務める米国の帆走戦闘スループ・プレブル(USS Preble)が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎に来航、軍事介入の可能性をほのめかしつつ、交渉を行った。結果、船員とラナルド・マクドナルドが解放された。帰国後、グリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。彼のこの提案は、マシュー・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった。 1849年(嘉永2年)、英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀に来航し、地誌的調査を行った。マリナー号には音吉が通訳として乗艦していた。音吉は日本とのトラブルを避けるため、中国人であると偽っていた。 1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。開国を要求した。蒸気船の来航はこのときが初めてであった。 1854年(嘉永7年/安政元年)ペリーが再来航し、日米和親条約を締結。下田と函館を開港し、鎖国が終わる。 1858年(安政5年)タウンゼント・ハリスと徳川幕府が日米修好通商条約を締結し、鎖国が完全に終わる。 追ってアメリカと同様の不平等条約が、フランス・イギリス・ロシアとの間にも結ばれ、さらにはオランダに対しても、改めて日蘭和親条約ならびに日蘭修好通商条約の締結により関係が継続された。これらの条約によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可された。1856年(安政3年)には出島開放令と共に出島の日本人役人が廃止され、3年後の1859年(安政6年)には、出島にあったオランダ商館も閉鎖されたため、オランダ人の貿易は横浜など日本各地へと移り、オランダ人の貿易独占権は消滅することとなった。これにより鎖国は終焉を迎えた。 なお、学問や商業目的の海外渡航が解禁されたのは1866年5月21日(慶応2年4月7日)のことであった。また、外国人の居住が自由になるのは、正式には内地雑居が認められる1899年(明治32年)7月16日である。 当初の「鎖国」の主目的であった「キリスト教の禁止」は、日米修好通商条約において居留地における教会建設と居留アメリカ人の信教の自由が認められたが、明治政府もしばらくは禁教政策を続けており、日本人に対する禁教が解かれたのは1873年(明治6年)であった。 開国後、オランダのバタビア政庁機関紙『ヤパッシェ・クーラント』が洋書調所で抄訳され、『官板バタヒヤ新聞』や『官板海外新聞』として一般、不定期に販売された。やがてアメリカの新聞をソースとする『官板海外新聞別集』が出回った。これは南北戦争の様子を挿絵つきで伝えた。 鎖国体制の崩壊は徳川幕府の命運が尽きたことをも意味していた。ペリーの来日から大政奉還による徳川幕府の消滅まではわずか14年しかなかったのである。
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