中川五郎治とは? わかりやすく解説

中川五郎治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 08:42 UTC 版)

中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日1848年10月23日))は、日本における種痘法の祖。本名・小針屋佐七、別名・中川良左衛門。陸奥国生まれで蝦夷地に渡り、択捉島の漁場の番人を務めていたが、文化露寇の際にロシア側の捕虜となりシベリアに送られ、そこで種痘法を身に付ける。ゴローニン事件の際に日本に送還され、後に松前奉行松前藩に仕え、箱館松前を中心に種痘法を広めた。


  1. ^ 左近(1999), p.623
  2. ^ a b リコルド, p.235
  3. ^ 左近(1999), p.655
  4. ^ このとき、ロシアの子供は軍隊ごっこをするから好戦的だとか、イルクーツクの状況を聞かれても、外出せず一日中日記を付けていたため判らないと答え、奉行に「愚か者」と笑われている。ゴローニン, pp.156-162
  5. ^ 笠原の種痘技術は、緒方洪庵らと同じく長崎経由でもたらされたもの。
  6. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.53


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