ゴローニン事件とは? わかりやすく解説

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ゴローニン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 06:43 UTC 版)

ゴローニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件、ゴローウニン事件とも表記)は、1811年文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンロシア語: Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin・日本では一般にはゴローニンと表記するため、以下ゴローニンと記載する。)らが、国後島松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドロシア語版と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記(原題:ロシア語: Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах)』により広く知られる。 ※日付は和暦。


注釈

  1. ^ ゴローニン率いるディアナ号はロシア帝国東方の未探索地域の調査任務のため、1807年にクロンシュタットを出港、1809年にカムチャツカに到着後、1810年には北アメリカ西岸の航海を行っていた[11]
  2. ^ このときゴローニンは、択捉島とは別の島に上陸したと思っていた[12]
  3. ^ 石坂が連れていたアイヌのうちの1人[18]
  4. ^ アイヌ語通詞。アイヌ語辞典『蝦夷方言藻汐草』を編纂した。
  5. ^ 松前奉行支配調役下役。別名・秦貞廉。間宮林蔵の師・村上島之允(秦億丸)の養子。林蔵の『北蝦夷図説』『東韃地方紀行』を編纂した[33]
  6. ^ 林蔵は択捉島の紗那でフヴォストフの襲撃を受けている。
  7. ^ アメリカ人の商人・ドベリの記録に嘉兵衛と会った話が書かれている[44]
  8. ^ 説諭書には彼が書いた書状が添えられていた[48]
  9. ^ イルクーツク県知事の釈明書はフヴォストフの行為が全て明らかになっていない時点で書かれたもので内容不十分であったため、日本側はオホーツク長官の釈明書を正式な回答とみなした[61]
  10. ^ ユリウス暦での日付であり、和暦では5-6月となる。
  11. ^ 商館長がゴローニン事件に詳しいのを馬場が問いただして本書の存在を知り、借用して書写した[78]
  12. ^ 杉田玄白の次男、杉田成卿の父[79]

出典

  1. ^ 松前藩の千島統治アーカイブ
  2. ^ 新版・北海道の歴史 上巻 p.288
  3. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.381-382”. 函館市中央図書館. 2015年4月4日閲覧。
  4. ^ 渡辺京二 2010, pp. 84–86.
  5. ^ 渡辺京二 2010, pp. 145–148.
  6. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.386-397”. 函館市中央図書館. 2015年4月4日閲覧。
  7. ^ 渡辺京二 2010, p. 254.
  8. ^ 渡辺京二 2010, p. 256.
  9. ^ 渡辺京二 2010, p. 257-258,263-270.
  10. ^ 横山伊徳 2013, pp. 146–147.
  11. ^ ゴロウニン 1984a, p. 17.
  12. ^ ゴロウニン 1984a, p. 38.
  13. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 38–43.
  14. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 29–30.
  15. ^ ゴロウニン 1984a, p. 62.
  16. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 66–67.
  17. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 74–82.
  18. ^ ゴロウニン 1984a, p. 54.
  19. ^ ゴロウニン 1984a, p. 83.
  20. ^ ゴロウニン 1984a, p. 87.
  21. ^ ゴロウニン 1985, p. 192.
  22. ^ ゴロウニン 1985, pp. 186–192.
  23. ^ ゴロウニン 1985, pp. 194–195.
  24. ^ ゴロウニン 1985, pp. 196–198.
  25. ^ 渡辺京二 2010, p. 296-300.
  26. ^ 渡辺京二 2010, p. 305-306.
  27. ^ ゴロウニン 1984a, p. 311.
  28. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 312–313.
  29. ^ ゴロウニン 1984b, p. 28.
  30. ^ ゴロウニン 1984b, p. 64.
  31. ^ ゴロウニン 1984b, pp. 68–79.
  32. ^ 『松前町バッコ沢牢屋跡遺跡”. 北海道教育委員会. 2015年3月28日閲覧。
  33. ^ 渡辺京二 2010, p. 306-307.
  34. ^ ゴロウニン 1984a, p. 258.
  35. ^ ゴロウニン 1984b, p. 153.
  36. ^ ゴロウニン 1984a, pp. 303–308.
  37. ^ ゴロウニン 1984b, p. 14.
  38. ^ ゴロウニン 1985, pp. 199–200.
  39. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.472-473”. 函館市中央図書館. 2015年3月12日閲覧。
  40. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.473-476”. 函館市中央図書館. 2015年3月12日閲覧。
  41. ^ a b 函館市史通説編第1編 pp.476-477”. 函館市中央図書館. 2015年3月5日閲覧。
  42. ^ 須藤隆仙 1989, pp. 158–159.
  43. ^ 須藤隆仙 1989, pp. 164–165.
  44. ^ 生田美智子 2012, pp. 188–190, 319–324.
  45. ^ 斉藤智之 2014, pp. 77 pp=115.
  46. ^ 須藤隆仙 1989, pp. 165–167.
  47. ^ 斉藤智之 2014, pp. 78–80.
  48. ^ ゴロウニン 1984b, pp. 143–145.
  49. ^ 横山伊徳 2013, p. 190-192.
  50. ^ 渡辺京二 2010, pp. 326–329.
  51. ^ 斉藤智之 2014, p. 80.
  52. ^ 須藤隆仙 1989, p. 187.
  53. ^ 通航一覧第八 p.73
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  56. ^ 函館市史通説編第1編 pp.478-479”. 函館市中央図書館. 2015年3月11日閲覧。
  57. ^ ゴロウニン 1985, pp. 286–287.
  58. ^ ゴロウニン 1985, p. 294.
  59. ^ ゴロウニン 1985, pp. 303–305.
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  61. ^ ゴロウニン 1984b, pp. 225–226.
  62. ^ 函館市史通説編第1巻 pp.481-482”. 函館市中央図書館. 2015年3月8日閲覧。
  63. ^ ゴロウニン 1985, p. 325.
  64. ^ ゴロウニン 1985, pp. 325–326.
  65. ^ ゴロウニン 1984b, p. 255.
  66. ^ ゴロウニン 1984b, pp. 256–257.
  67. ^ 須藤隆仙 1989, pp. 198–199.
  68. ^ ゴロウニン 1984b, pp. 229–230.
  69. ^ 通航一覧第八 pp.111-116
  70. ^ 通航一覧第八 pp.119-121
  71. ^ 通航一覧第八 pp.127-128
  72. ^ 斉藤智之 2021, pp. 97–99.
  73. ^ 斉藤智之 2021, pp. 45–48.
  74. ^ 斉藤智之 2021, pp. 154–155.
  75. ^ 聖ニコライの渡来”. 日本正教会. 2015年3月30日閲覧。
  76. ^ ゴロウニン 1984a, p. 7.
  77. ^ 斉藤智之 2021, pp. 87.
  78. ^ 和田春樹 1991, p. 72.
  79. ^ 杉田立卿とは”. コトバンク. 2015年3月23日閲覧。
  80. ^ 遭厄日本紀事”. 国立国会図書館. 2015年3月15日閲覧。
  81. ^ 生田美智子 2012, pp. 327–328.
  82. ^ 日本幽囚記 ニホンユウシュウキコトバンク
  83. ^ 幕末日本とナポレオン情報「日本研究」再考――北欧の実践から[北欧シンポジウム2012]岩下哲典、国際日本文化研究センター, 2014
  84. ^ Adolf Muschg: Löwenstern. München : C.H. Beck 2012 (ISBN 978 3 406 63951 7), S. 5 (Motto)
  85. ^ 立川希代子「「橋」としてのハイネ」〔内田イレーネ・神谷裕子・神田和恵・立川希代子・山田やす子『異文化理解の諸相』近代文芸社2007 (ISBN 978-4-7733-7452-0) 所収 125-185頁の中、155頁〕



ゴローニン事件

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高橋重賢」の記事における「ゴローニン事件」の解説

事件当時松前奉行支配吟味役であった重賢は、1813年5月高田屋嘉兵衛がリコルドとともにカムチャツカから国後島帰還すると、同役の柑本兵五郎とともに捕虜シモーノフとアレキセイを連れて国後島向かい7月11日到着高田屋嘉兵衛事情聞いた後、リコルドにゴローニン解放条件として釈明書を提出することを要求したその後、リコルドが釈明書を入手して箱館来航した際に日本代表として対応し9月26日ゴローニン引渡し事件解決導いた。この褒美として同年12月12日に金2枚を賜っている。 ゴローニン離日する際、日本側に国境画定関し翌年択捉島交渉したい旨の文書渡していた。これを受けて幕府は、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居建てないとする案を立て1814年春、重賢を択捉島送った。しかし、重賢が6月8日到着した時にはロシア船は去った後であった。このため国境画定幕末まで持ち越されることとなった

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「ゴローニン事件」を含む「高橋重賢」の記事については、「高橋重賢」の概要を参照ください。

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