高田屋嘉兵衛の拿捕とは? わかりやすく解説

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高田屋嘉兵衛の拿捕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 06:53 UTC 版)

ゴローニン事件」の記事における「高田屋嘉兵衛の拿捕」の解説

オホーツク戻ったリコルドは、ゴローニン救出交渉材料とするため、良左衛門1810年文化7年)にカムチャツカ半島漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島向かった8月3日に泊に到着国後陣屋ゴローニン日本人漂流民の交換求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑した偽り拒絶した。リコルドはゴローニン処刑信じず、更なる情報入手するため、8月14日早朝国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕乗船していた嘉兵衛水主金蔵平蔵吉蔵文治アイヌ出身シトカの計6名をペトロパブロフスク連行したペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語学んだ。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地人々日本酒振る舞い親交深めたまた、当時ペトロパブロフスク貿易港として各国商船出入りしており、嘉兵衛諸外国商人交流している。12月8日和暦)、嘉兵衛寝ているリコルドを揺り起こし事件解決方策話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛ゴローニン捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐限りを尽くしたからで、日本政府蛮行事件謝罪文書提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した翌年2、3月に、文治吉蔵シトカ病死。嘉兵衛ロシア正教葬式を行うというロシア側の申出断り、自ら仏教アイヌそれぞれの様式で3人の葬式行ったその後、みずからの健康を不安に感じた兵衛情緒不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカ長官任命されていたが、嘉兵衛提言従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義謝罪文書き上げ、自ら日露交渉赴くこととした。

※この「高田屋嘉兵衛の拿捕」の解説は、「ゴローニン事件」の解説の一部です。
「高田屋嘉兵衛の拿捕」を含む「ゴローニン事件」の記事については、「ゴローニン事件」の概要を参照ください。

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