高田好胤との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 15:21 UTC 版)
その強烈な職人気質で摩擦も多かったが、一方では多くの人々との交流もあった。とくに薬師寺管主高田好胤とは薬師寺伽藍再建との関わりが深く、常一が最も影響を受けた僧侶の一人であった。もともと高田は師の橋本凝胤の悲願であった堂宇再建を実現するため、百万巻写経などの話題作りやマスコミに出演して再建の勧進をすすめていた。このようにメディアの露出度が多いことが、常一には「タレント坊主」と見えてしまい、後年、高田が「最初のころ、私は西岡はんに大分にきらわれていたらしい。」と苦笑交じりに語っているように、評価していなかった。だが、「…会って話すうち、これはさすがと感心させられた。仏法を我々に理解できるように説」く態度と、「てらいのない謙虚な」性格とにだんだん魅かれて行った。そして金堂棟上げ式の時、橋本凝胤が棟木に高田管長名を書き入れ、反発した高田が西岡の名前を書き入れるよう訴えた事件が起こり、常一は自身の慾を捨てた高田の態度に心服する。すっかり惚れ込んだ常一は、この人がいるのなら西塔建立ができると、金堂落慶法要直後、西塔再建の建白書を高田に提出する。この時高田は「あんたはひどい目にあわす人や。」ぼやきながらも笑っていた。
※この「高田好胤との交流」の解説は、「西岡常一」の解説の一部です。
「高田好胤との交流」を含む「西岡常一」の記事については、「西岡常一」の概要を参照ください。
- 高田好胤との交流のページへのリンク