フランス革命戦争とナポレオン戦争
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「ジョージ3世 (イギリス王)」の記事における「フランス革命戦争とナポレオン戦争」の解説
ジョージ3世が回復した後、小ピットと彼の人気は上昇し、一方王太子とフォックスの人気は下がった。狂気に陥っていた2人の暗殺者、すなわち1786年のマーガレット・ニコルソン(英語版)と1790年のジョン・フリス(英語版)に対する理解を示した人道的な対処はジョージ3世の人気を高めた。1800年5月15日にもジェームズ・ハットフィールド(英語版)という人がドルリー・レーン劇場(英語版)でジョージ3世を射殺しようとしたが、動機は政治的なものではなく、ハットフィールドとバニスター・トゥルーロック(英語版)の終末的な妄想によるものだった。ジョージ3世は暗殺未遂事件に全く動じず、幕間に眠ってしまったほどであった。 1789年のフランス革命により、フランス王ルイ16世が廃位されたが、これはイギリスの地主の憂慮を引き起こした。フランスは1793年にイギリスに宣戦布告、ジョージ3世は小ピットに増税と徴兵を許可、またヘイビアス・コーパスの権利を一時停止した。しかし、オーストリア、プロイセン、スペインとともに結成した第一次対仏大同盟は1795年にプロイセンとスペインがフランスと単独講和したことで崩壊した。オーストリア、ロシア、オスマン帝国とともに結成した第二次対仏大同盟も1800年に敗北した。イギリスだけがフランス統領政府の第一統領であったナポレオン・ボナパルトとの戦争を継続した。 戦況が短期間和らいだことで小ピットはアイルランド問題に集中できた。アイルランドでは1798年に反乱とフランスによる上陸の試みがあった。1800年、グレートブリテンとアイルランド議会はそれぞれ合同法を通過させた。合同法が1801年1月1日に施行されると、グレートブリテン王国とアイルランド王国は合体してグレートブリテン及びアイルランド連合王国になった。ジョージ3世はこれを機にエドワード3世時代から保持していた「フランス王(英語版)」の称号を取り払った。「ブリテン諸島の皇帝」の称号も提案された、これはジョージ3世に拒否された。小ピットはアイルランド政策の一環としてイギリスのカトリックへの差別政策(英語版)を取り除くことを計画した。ジョージ3世はカトリック解放を容認することがプロテスタントを維持するという戴冠式の誓言を破ることになると主張した。国王とイギリス大衆に宗教改革の政策を反対されたことで、小ピットは辞任すると脅した。ほぼ同時期にはジョージ3世の病気が再発したが、彼はカトリック問題に対する憂慮が病気の再発を引き起こしたと主張した。1801年3月14日、小ピットは正式に庶民院議長(英語版)のヘンリー・アディントンに更迭された。アディントンはカトリック解放に反対、所得税を廃止、軍縮政策を推進、年次財務諸表の制度を設立した。1801年10月にはフランスと和平、1802年にアミアンの和約を締結した。 ジョージ3世はフランスとの和平を本当のものとは見ず、ただの「実験」として扱った。1803年、戦争が再開したが、世論はアディントンが戦争中のイギリスを率いることを信用せず、小ピットの再任を希望した。ナポレオンによるイングランド侵攻はすぐにでも現実になりそうで、イングランドをフランスから守る動きが大勢の志願兵を生み出した。ジョージ3世が1803年10月26日と28日にハイド・パークで行った閲兵は侵攻の脅威が最高潮だった頃に行われたこともあり、約50万人の見物人が集まる結果となった。タイムズ紙によると、「群衆の熱意はどんな形容も超えるものだった」。とある廷臣は11月13日に「国王は攻撃があった場合に戦場に立つ用意ができている。砲床が準備されていたので、警告があれば半時間で動ける」と書いた。ジョージ3世は友人のリチャード・ハード主教(英語版)に手紙を書き、「私たちは毎日、ボナパルトがあらかじめ脅していた侵攻を行うことを予想した[...]彼の部隊が上陸してきた場合、私は必ずわが部下、わが軍の先頭に立って、彼らを撃退する」と述べた。ネルソン子爵が有名なトラファルガーの海戦で勝利を収めた後、侵攻の可能性は消えた。 1804年、ジョージ3世の病気が再発した。彼が回復した後、アディントンは辞任し、小ピットが首相に復帰した。小ピットはフォックスを閣僚に任命しようとしたがジョージ3世に断られ、グレンヴィル男爵はフォックスへの不公平を感じ取って入閣を拒否した。小ピットはオーストリア、ロシア、スウェーデンとの大同盟の締結に集中し、第三次対仏大同盟の結成に成功したが、1805年には第一次と第二次同盟の末路と同じく、解体した。ヨーロッパでの挫折は小ピットの健康に悪影響を及ぼし、彼は1806年に死去した。その結果、だれが入閣すべきかという問題が再び浮上した。グレンヴィル男爵は首相になり、彼の全人材内閣(英語版)にはフォックスも入閣した。ジョージ3世はフォックスの入閣に同意せざるを得ず、その後はフォックスとの和解の動きもあったがフォックスが同年9月に死去した後はジョージ3世と内閣が対立した。1807年2月、内閣は募兵数を増やすためにカトリックが軍の全ての階級につくことができる施策を提案した。ジョージ3世はこの施策を取り下げるよう要求するとともに、二度とそのような施策を提案しないことを約束させようとした。内閣は取り下げには同意したが、二度と提案しない約束には拒否した。結局、ジョージ3世は内閣を罷免、代わりにポートランド公爵が名目的な首相に就任したが、実権は財務大臣のスペンサー・パーシヴァルに握られた。議会は解散され、直後に行われた1807年イギリス総選挙(英語版)において内閣は庶民院で大多数を確保した。ジョージ3世はその後、重大な政治決定を行うことはなかった。1809年に首相がポートランド公からパーシヴァルに変わっても実態はさほど変わることはなかった。
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フランス革命戦争とナポレオン戦争
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「トマス・グレーブス」の記事における「フランス革命戦争とナポレオン戦争」の解説
アメリカ独立戦争後、グレーブスはフランスで主に過ごした。フランス革命戦争の初期には召集されなかったが、1800年10月になって、ジョン・ジャーヴィス指揮下にある海峡艦隊の74門艦カンバーランドに配属された、この任務は数か月間程度のものだった。1801年1月1日に白色少将となり、3月には64門艦パリフィーマスに旗をなびかせた、この艦はハイド・パーカーの下バルト海に向かう艦隊の1隻だった。
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