郵便 郵便の概要

郵便

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 01:20 UTC 版)

日本の郵便配達の様子

概説

広辞苑では「信書書状はがき)その他 所定の物品を内・国外へ送達する通信制度」と説明している[2]。つまり、郵便とは郵便物を送達する仕組み・制度のことであり、(俯瞰してみれば)通信制度(通信システム)のひとつである、というわけである。

また「郵便」は郵便物略称として用いられることもある[2]

各国の郵便で基本となっているのは、定められた寸法や重量を守った郵便物に宛先を明記し、郵便局等において、寸法重量カテゴリごとに一定の料金を支払うと、郵便事業者が宛先へと配達してくれる、というものである。また同様に、通常の速さ(日数)で送るはがき封書などは、わざわざ郵便局に足を運ばなくても、郵便物に料金相当分の切手を貼付し郵便ポストに投函すれば、郵便事業者がポストを定期的に巡回しておりそれを集めて郵便局へ運び、その後は郵便局であずかった郵便物と同様に、宛先まで送達する、という仕組みもかなり一般的である[注 1]

郵便物の宛先(送達先)は、企業などの所在地個人住所などが指定されることが一般的で、その場合、企業や個人の郵便受けに届けられる。また宛先には、郵便局の私書箱が指定される場合がある。この場合は、郵便物は特定の郵便局の特定の箱に届けられ、受け取り人のほうが適宜、都合の良い時に、その箱へと出向いて郵便物を受け取ることになる。

次節から述べる郵便史については、郵便・飛脚の区別をふくめ、どこを始まりとするかは明確ではない。タクシス郵便はおそらく万国郵便連合につながるから原点とされ、またペニー郵便制度はイギリスの造船力・海運力が世界展開を可能にしたから始点と考えられる。英国内についていえば、廉価なペニー飛脚は利便性においてもペニー郵便制度に遜色はなかった。各国史におけるそれぞれの郵便史は様相が異なる。日米の郵便史コレクションは各国の節に譲る。

なお、ウィキペディアには「郵便を題材とした作品」というカテゴリーが存在する。

前史

僧院飛脚マナスティック・ポストは、各地の教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった。教皇庁と各僧院が僧侶使者に立て、ネットワーク[要曖昧さ回避]化したのである。ヒエラルキーに基づいた意思伝達が飛脚によって行われた。クリュニー修道院クリュニー会を頂点に、飛脚制度を改革して中央集権を果した。布教に必要な信頼を得るため、飛脚は市民の信書も運んだ。臨時のアビニョン庁ですら官僚制と飛脚は充実していた。教皇庁の通信は商業ルネサンス期に民間飛脚へ変わってゆく[3]

中世大学の定期通信は大学飛脚メッサジェ・ドゥ・ル・ヴェルシイテが担った。とりわけパリ大学の制度が秀逸であった。学生が出身ごとにつくった同郷会ナシイオは、大学の財政管理や対外折衝に参画する一方、パリ市内の名望家に飛脚の運営を委ねた。飛脚は管理職のグレート・メッセンジャーと、実際に輸送するフライング・メッセンジャーに分かれた。前者は大学の教授・学生と等しい優遇措置を受けた。十分の一税塩税、ワイン税、通行税、その他諸税の免除であった。グレート・メッセンジャーは大学とナシイオに収益の一部を還元した。彼らは金融を手がけるほどの余剰資金に恵まれた。優遇措置は国王と市民の負担となり、何度も争いがおきた。パリ大学の飛脚は何世紀も続いたが、1720年に12万フランで国有化された[3]

11世紀 - 12世紀の商業ルネサンスに貢献した飛脚は、地中海/北欧の商業圏とそれらの交流経路で活躍した。1290年トゥルン・ウント・タクシス家英語版の祖オモデオ・タッソベルガモ飛脚を整備した(カメラータ・コルネッロも参照)。彼はヴェネツィア共和国へ進出し、1305年にヴェネツィア使者商会をつくった。共和国はタッソ一族のためにローマ教皇庁と折衝し、彼らが教皇庁の支配地域で飛脚を営む権利を認めさせた。彼らの飛脚はフランクフルト・マドリード・バルセロナまでも走った。スペインは一族が後に郵便事業を営むときからスポンサーとなる。使者商会は1436年まで市内飛脚と競合した。一方、ハンザ同盟の飛脚も国際的だった。ブレーメンでは12世紀半ばから飛脚制度が敷かれた。16世紀 - 17世紀にはリガ・ニュルンベルク・アムステルダム・ヴェネツィア・ロンドン・ウィーン・プラハまでも、発着時刻を守って運営された[3][4]

ドイツ騎士団国マルボルクを築いた当初、飛脚を抱えていなかったので、騎士自らが伝令を務めた。急用でなければ僧院飛脚を利用した。やがて騎士の伝令は、ウィティングという土地の者と協力して飛脚網を張った[3]

シュトラスブルクは10世紀 - 11世紀に都市飛脚を整えた。これは公私混用された。1322年の同市の都市法には市の書記局に勤務している誓約した飛脚が登場する。1443年の文書によると3名の飛脚がおり、2年毎に8エレの衣服用の布と毎年靴修理のための5シリングを報酬の他に受け取ることになっていた[5]。14世紀末のケルンでは公私独立した制度をもっていた。民間の方は市の中央に詰め所が設けられ、郵便ポスト兼郵便局となっていた。フランクフルトの飛脚は1385年で、アシャッフェンブルクコブレンツ・ケルン・ジーゲンなどへ走った。騎馬飛脚はブレーメンやシュターデにも時間を守って往来した。飛脚の肖像が残っており、パスポート代わりに帝国の紋章をつけていた。文箱は木製だったり、ペットボトルサイズの壺に変わったりしたが、15世紀に銀製の箱になった。槍を携帯し、野犬と強盗から身を守る他に濠を飛び越えるのにも使った[3]

歴史

近代郵便の原点は、1516年からドイツ・イタリアの名門一族の人物フランチェスコ・デ・タシス1世が、Thurn und Taxisを設立・運営する中でヨーロッパ全域を対象に行ったものである。この一族は、近年の郵便学における研究対象として筆頭である。なお、トゥルン・ウント・タクシスの郵便業が角笛を使うようになったのは、1615年のことで、現在でもドイツ郵便はラッパをマークとしている[6]

商業ルネサンス以降の商用飛脚は契約書等の交換を円滑にした。保険証券が交換されて海上保険が発達した。この中世すでに貿易決済をする銀行が存在し、これらの間を手形割引された輸出手形が往来した。銀行が割引で稼ぐ行為は第5ラテラン公会議で追認された。飛脚によって所要時間が相当に異なり、満期は鈍行に合わせて決められた。メディチ家フッガー家為替レートを調べるために高給の銀行飛脚を利用した。地中海/北欧の商業圏において結節点にあたるリヨンでは、年に四回開かれる大市が手形交換所となっていた。フランスの全209銀行のうち169行が参加し、エキュ・ド・マルクという仮想基軸通貨を用いて決済された。大市で決まった為替レートは銀行飛脚で知ることができた。フィレンツェ出身のジャン=バティスト・ヴェラサンという人物がリヨンの飛脚を取り仕切っていたが、リヨンの銀行家に訴えられた。このような銀行飛脚は教皇庁や国王の文書も運んだ[3]

1657年にイギリス政府は郵便を国営事業にした[7]。これは1682年に後の事業と合体する。

ロンドンでは15世紀に外国商人が飛脚を運営していた。外国商人として、ハンザ商人・フランドル商人・イタリア商人がいた。1496年、イギリスとネーデルラントは通商条約を結んだ。両国の君主は、重商主義政策をとるヘンリー7世 と、帝国郵便の庇護者フェリペ1世であった。1514年、外国商人飛脚が設立された。これは条約に優遇されてイギリスの検閲を免れた。16世紀に王立取引所そばのジョージ旅館が拠点となって冒険商人飛脚が設立され、外国商人飛脚と競争した。17世紀に両者はイギリスのロイヤルメールに吸収された。ロイヤルメールは戸別配達をしなかった。1680年3月、ウィリアム・ドクラが共同出資者を募ってペニー飛脚(en)を始めた。4月に週一万通だったのが、翌年3月には三万通も売り上げた。切手はなく、収納印が用いられた。ペニー飛脚はロイヤルメールに目をつけられ、1682年に独占権の侵犯を理由に無補償で国有化されてしまった。これに伴い、ドクラ支持者のシャフツベリ伯爵はオランダへ亡命する。ペニー飛脚は1682年12月に再開された[3]

フランスでは二種の飛脚があった。パリで戸別配達をするプチポストは1760年に勅許を得たが、収益が裏目に出て接収されてしまった。これはリヨン等各地に導入されて、パリでは毎日六回も集配する手厚いサービスとなった。全国の主要駅路を走るグランポストもあった。19世紀はじめまで、人口ベースで約八割が飛脚の圏外にあった。改善は1829年から行われた[3]

1840年1月、ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、近代郵便の基礎が確立された。世界最初の郵便切手ペニー・ブラック」の発行を伴ったことから、この郵便制度は通称「ペニー郵便制度」ともよばれた。

トルコのコンスタンチノープルにあった、ドイツの郵便局。写真は1870年の絵ハガキ。1881年同地にオスマン債務管理局ができた。郵便制度は政治経済と不可分である。切手は1884年から発行された(英語による詳細)。2016年、第26回郵便連合会議がイスタンブールで催された。

1870年、フランスのメス市で国内初の航空郵便が実施された。

1874年には帝国郵便をもとに万国郵便連合が発足した。現在、これに加盟している郵便事業体間であれば郵便物を送り届けられるようになっている。それまでは各国の事情に応じて郵便事業が行われていた。連合の発足においてはタシス家の代表も署名に参加した。万国郵便条約により、郵便料金をどのように設定するのかとか、事業体間でどのようにお金の決済をするのかといった問題が解決された。

1909年、ドイツ郵便局は小口の口座振替を扱いはじめ、このサービスについてライヒスバンクと協定した。1910年にはオーストリア・ハンガリーの郵便貯蓄銀行、スイス小切手局、ベルギー国立銀行、そして1912年にはルクセンブルク中央銀行が、それぞれドイツ郵便局と協定した。ライヒスバンクは1883年からイギリスを手本に手形交換所を設けだした。これらは1913年で23ヶ所存在し、1912年に35億ポンド超の交換高を記録した。イギリスが150億ポンド超であるのと比べると少なくみえる。しかし、35億はネットの値であり、口座振替総額をグロスで加算すると220億ポンド超となった[8][注 2]

1934年、第10回郵便連合会議(Postal Union Congress)がエジプトのカイロで開かれた。ここでの合意に基いて、国際決済銀行が実務を請け負い国際郵便振替がスタートした[9]。各国中央銀行の金口座を開設・連結することにより、万国郵便連合の郵便・電信・電話サービスに関する国際決済尻を清算する仕組みであった。原加盟国はドイツのほか、その孤立を狙う英仏とスカンジナビア諸国であった。郵便振替は1937年4月から行われ、扱い高でほとんど英仏のためのインフラとなっていた。しかし翌年末にスイスが参加してナチス・ドイツにも利用価値が出た。第二次世界大戦が始まると数年だけ郵便振替は休眠状態となった。

そんな折、ドイツによりチェコから切り離されたスロバキア共和国の傀儡政権が郵便振替の口座開設を申し出た。この可否をスイスポストスイス国立銀行に問い合わせた。1942年9月10日付の照会に対し、国立銀行は開設できないと答え、ついでにスイスポスト内の国際決済銀行口座も閉鎖するよう忠告している[10]。勧告通りスイスポストがBIS口座を閉鎖したころに、国際郵便振替をドイツが利用しはじめた。1941年 - 1942年には決済件数23で金12.4キログラムの取引だったのが、1942年 - 1943年には34件で703.3キログラムとなり、1943年 - 1944年には30件で371キログラムの取引を記録した[11]。これら取引のうち2/3がドイツ帝国郵便からハンガリーポストへの支払で、残り1/3もドイツからだが支払先がトルコとアルゼンチンであった。

1962年、アジア=太平洋郵便連合(Asian Pacific Postal Union)が万国郵便連合憲章8条に基づき設立された。アジア・太平洋地域内における郵便業務に特有な諸問題の解決を図り、サービスをより便利にすることを目的とする。日本は1968年に加盟した。連合の最高機関である大会議は、通常5年ごとに開催される。

1980年ごろ、イギリス・カナダ間でインテルポストがサービスを開始した[12]。インテルポストは郵便とファックスを組み合わせた国際電子郵便である。1984年に正式にスタートし、2003年に廃止された。


注釈

  1. ^ 郵便に十分な人員が当てられていないなどでは、郵便ポストはほとんど設置されていない場合もある。
  2. ^ 1912年にはドイツで初の航空便が送られた。
  3. ^ 印刷した書状や業務用書類、商品見本などを内容とし、その内容を検査できるように開封として差し出されることを要件とした郵便物。
  4. ^ 法律上の名称は「郵便切手つきの通信用紙」。

出典

  1. ^ 郵便(ゆうびん)の意味”. goo国語辞書. 2019年11月24日閲覧。
  2. ^ a b 広辞苑第六版「郵便」
  3. ^ a b c d e f g h 星名定雄 2006 第7章 中世ヨーロッパの成立と飛脚の台頭
  4. ^ 星名定雄 2006, pp. 227–228 第8章
  5. ^ 阿部謹也『中世の窓から』朝日新聞社 1981年、164-165頁。
  6. ^ 阿部謹也『中世の窓から』朝日新聞社 1981年、168-169頁。
  7. ^ 北岡敬『そこが知りたい【事始め】の物語』雄鶏社、1995年4月。ISBN 4-277-88095-9 
  8. ^ Leopold Joseph, The Evolution of German Banking, London, Charles & Edwin Layton, 1913, chapter 3.
  9. ^ Isabella Löhr, Roland Wenzlhuemer, The Nation State and Beyond: Governing Globalization Processes in the Nineteenth and Early Twentieth Centuries, Springer Science & Business Media, 2012, p.56.
  10. ^ Schweizerische Nationalbank, Archiv Bern, Abmachungen mit der BIZ, Archivschachtel Nr.112.
  11. ^ McKittrick Collection, Movements of Gold Sight Accounts for Postal Transactions 1941-44 by Roger Auboin vom 1.10.44.
  12. ^ タイムズ 1980年6月18日
  13. ^ 信書便事業者一覧”. 総務省 (2013年). 2013年8月15日閲覧。
  14. ^ 逓信省(編)『通信事業五十年史』逓信省、1921年、78頁。NDLJP:960186/63 
  15. ^ a b c d NDLJP:787962/57
  16. ^ a b c d e f g h i 逓信省 1921.
  17. ^ 郵便為替規則(大政官府告書明治7年第90号)、明治八年(1875年)一月二日ヨリ駅逓寮二於テ郵便為替規則ノ通リ三拾圓以下少額ノ為替方法施行候
  18. ^ 逓信事業史 2 逓信省編
  19. ^ 郵便法の一部を改正する法律(昭和41年6月8日法律第81号)”. 国立国会図書館 日本法令索引. 2021年2月14日閲覧。
  20. ^ 郵便法の一部を改正する法律・御署名原本”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2021年2月14日閲覧。
  21. ^ a b 昭和48年版 通信白書「郵便物の種類体系と制度の合理化」”. 郵政省 (1974年3月). 2020年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月24日閲覧。
  22. ^ 堀内恵彦 (1967年5月25日). “地質ニュース 1967年5月号 No.153” (pdf). 切手を集める人のために(8). 工業技術院 地質調査所. p. 46. 2021年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月20日閲覧。
  23. ^ はがきや手紙などの普通郵便 きょうから土曜日の配達取りやめ”. 日本放送協会(NHK) (2021年10月2日). 2021年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月2日閲覧。
  24. ^ 2021年10月から郵便物(手紙・はがき)・ゆうメールのサービスを一部変更します。”. 日本郵便. 2021年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月2日閲覧。
  25. ^ Daniel R. Headrick, When Information Came of Age: Technologies of Knowledge in the Age of Reason and Revolution, 1700-1850, Oxford University Press, 2000, chapter.6. Communicating Information - Postal and Telegraphic Systems
  26. ^ 山田伸二『大恐慌に学べ』東京出版、1996年9月、29頁。ISBN 4-924-64459-5 
  27. ^ 史上初の郵便スト ウォール街では飛脚便『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月20日夕刊 3版 11面
  28. ^ U.S.P.Sのウェブサイト
  29. ^ dpwn.de






郵便と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「郵便」の関連用語

郵便のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



郵便のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの郵便 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS