説経節 詞章とその変遷

説経節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 06:08 UTC 版)

詞章とその変遷

詞章は全体に因果律を説く霊験物が多いが、浄瑠璃の影響を強く受ける以前と以後では、形式・内容ともに大きな変化がある[17]

古説経の詞章

本地語りと古説経特有の語り口

明暦以前の、いわゆる「古説経」冒頭には、

国を申さば丹後国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の御本地(ごほんじ)を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度(ひとたび)は人間にておわします。… — 明暦2年刊、佐渡七太夫正本『せつきやうさんせう太夫』 

というような本地語りがある。ここでは、神仏が神仏になる以前の姿、いわば神仏の本源(本地)である人間について語られる[3]。そして、この詞章をみると、七五調あるいはその変形を単位として語られており、たとえば、丹後信濃に、金焼地蔵を親子地蔵に入れ替えると『苅萱』の本地語りに、あるいは国を美濃、神仏を正八幡の荒人神とすれば『をぐり(小栗判官)』の本地語りになる[1]

説経与七郎正本『さんせう太夫』(寛永16年頃)
人買いによって船で丹後に運ばれる安寿姫と厨子王丸。

このような定型的な文句は、他にも随所にみられ、「あらいたはしや○○」「○○これを御覧じて」「○○げにもと思ぼしめし」の空欄部分に登場人物の名を挿入すると、さまざまな作品の詞章となり得る[1]

古説経では、他の語りものにはみられない卑俗な日常語や方言、訛言がふんだんに用いられ、また、敬語の過剰な多用や道行における独特のスタイルなどにきわだった特徴がある[21]。さらに、古説経特有の語り口として注目されるものに「旅装束をなされて」「かっぱと起きさせ給いて」などにおける、おもに助詞の「て」につく間投詞の「に」の存在がある[15]。これは、4種の古説経の正本いずれにも共通してみられ、三都の太夫が別々に語っておりながら語り口における見事な統一性が確認できるのである[21]。これについては、元来伊勢方言ではないかという説(高野辰之)、さらに加えて、説経者のなかで有力なグループ(伊勢のささら説経)が他に支配的な影響をおよぼしたのではないかとする説(室木弥太郎)などがある[21]

本地語りなどにみられるこのような定型的な文句について、現在おこなわれている瞽女唄やイタコの祭文などの語り方と比較すると、その詞章の特徴は、口承文芸として長く語りつがれてきた結果ではないかと推測できる[1]。というのも、語り手は、暗記した詞章をそのまま逐語的に語るのではなくて、多くの決まり文句をみずから蓄えていて、聴き手を前にして随時これら常套句を取捨選択し、組み合わせながら、その場で自由に物語をつむぎ出していったのであり、口演の一回ごとにオリジナルな演出をほどこしていたのである[1]。20世紀アメリカ合衆国の叙事詩学者ミルマン・パリーと弟子のアルバート.B.ロードは、古代ギリシアホメロス叙事詩や現代ユーゴスラヴィアの口誦詩人の研究等を通じて、無文字社会における口承文芸は、このような韻律に合う決まり文句を容易に入れ替えて語られることを解明し、これを「オーラル・コンポジション」と命名した[1][24]。古説経の詞章はおそらく、この方法で記憶され、再現され、伝承されたものと考えられる[21]

道行文と地名

本地語りは、限られた日常的な時間・空間から聴衆を解き放ち、非日常的な、未知な領域へ引き入れていくという効果もあったと思われる[4]。しかし、これは遠国の霊地や霊仏を実見し、それにまつわる霊験譚や因縁話を熟知していなければ語り出せない性質のものでもあった[4]

それと同様に、説経節に特徴的な詞章として道行(旅)の過程を述べた「道行文」がある。『平家物語』や『太平記』にも名所案内も兼ねた道行の場面があらわれるが、代表的な説経節といわれる『かるかや』『さんせう太夫』『をぐり』『しんとく丸』『あいごの若』もまた、いずれも道行文を含んでいる[25]。また、地名については、作品の内容そのものに直接の関係が全くないにもかかわらず、具体的な特定の地名をはっきりと述べていることが注目される[3]

土佐日記』『伊勢物語』以降の上古・中古の文学にあっては、歌も物語も、場所と内容とが互いに分かちがたく結びついており、能楽や軍記物における道行の下りは、たえず土地の歴史をふりかえる素材となり、また、土地情報の圧縮版のような意味合いがあった[25]。これは、説経節においても同様であり、人びとは地名を聴くだけで過去の出来事や歌・物語・人物などを想起し、しばしばこの部分だけの語りを演者に求めることさえあったようである[25]。なお、室木弥太郎は、それが実際に語られた場所に応じて、地名を入れ替え、庶民が当該地において篤く信仰した神仏を引き合いに出すことによって、その物語のリアリティを保証する意味もあったのではないかと推定している[3]

一方、道行の詞章には正本による限り、季節の描写が確認できない[25]。これは、説経の者たちがどの季節に語っても、聴衆にそのときどきの季節として想像してもらうためであろうと考えられる[25]

浄瑠璃の影響

万治以降の正本になると、新たに古浄瑠璃の影響を受けた序があらわれ、文字によって描かれた作品に近づいていく[1]

それつらつらおもんみるに、人倫の法義を本(ほん)として、君を敬い、民をあわれみ、政事(まつりごと)内には五戒を保ち… — 万治4年刊『あいごの若』 

『あいこの若』二段目(寛文10年頃刊行)
人形劇となった影響で合戦シーンも登場している。

こうした重々しい教訓的な言葉によって演者の威厳を示すようになり、一方、かつて野外芸能だったものが劇場芸能となったことからの必要がなくなり、地方の寺社や神仏が、しだいに都市の聴衆に無縁のものになっていったことから、従来の「本地物」形式はすがたを消失していく[3]。また、従来は段に分かれていなかった説経が浄瑠璃同様、全体が6段に分けられるようになったが、室木弥太郎はこの変化を万治元年(1658年)以降のことと推定している[15]。そして、それぞれの段末には「上下万民おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ」という古浄瑠璃特有の形式句が付加されるようになり[21]、さらに、各段のあいだには余興を入れて聴衆を飽きさせないような工夫をほどこしている[3]

そのほか、操り人形が活躍するハイライト・シーンとして合戦の場面を設けるなどの工夫を加え、言葉遣いも古説経風の方言や俗語を捨てて、より標準的で洗練されたものになってくる[21]。これらは、いずれも劇場進出に向けた一連の改革ととらえることも可能である[3]。しかしながら、このような変化は一方で、泥臭くとも庶民のための口承文芸として生きつづけてきた古説経独特の生命力やその独特な味わいを喪失していく過程でもあった[21]

なお、旧作品の改作や新作が急速に進み、浄瑠璃の改作がおこなわれるようになったのも万治以降のことである[15]


注釈

  1. ^ 唱門師(声聞師)は、陰陽師を源流として当初は庶民向けに読経や卜占をおこなっていたが、曲舞猿楽などもおこなうようになった。「しょうもじ」「しょうもんじ」「しょもじ」と読み、「唱聞師」「聖問師」「唱文師」「誦文師」とも表記する。散所(寺社の附属地でその雑役にあてられた)に集住したところから「散所非人」ないし単に「散所」と称されることもあった。塩見(2012)pp.87-93
  2. ^ 『元亨釈書』では、唱導の名手といわれた慶意には「先泣の誉」があったことを伝えているが、このことは、唱導の名手は聴衆を泣かせる前にまず自ら泣いたことを意味している。五来(1988)pp.484-485
  3. ^ 当初、僧侶が経典を講読する説法であった説経(説教)も、平安時代なかばには、清少納言が『枕草子』で「説教の講師は顔よき」と述べたように、美的雰囲気をともなうものでなければ聴衆の関心をひくことができないものとなっており、さらに、『今昔物語集』に収載された天台座主教円にかかわる説話からは、従来の教典講説から機知やユーモアに富んだ通俗的な講説に変質してきた事実がうかがえる。さらにまた、院政期に唱導の名手として活躍した澄憲は、学識深く能弁で、しかも清朗な美声のもち主であったため、多くの人びとを惹きつけ、多数の聴衆の感涙をさそったといわれている。澄憲の子の聖覚もまた弁才にすぐれ、浄土門に帰依するいっぽうで安居院流を創始した。やがて、説経は哀讃を中心にすえるようになり、身振りや音韻的要素を加えて、芸能に近いものとなり、大衆とのかかわりを深めていったのである。岩崎(1973)pp.21-25
  4. ^ 岩崎武夫は、平安時代初期の弘仁年間(810年-824年)に景戒が撰した『日本霊異記』を最古の唱導(説経)文学として掲げている。岩崎(1973)p.28
  5. ^ 唱導文学は、中世においてさまざまな説話文学と語りもの芸能を生み出した。『平家物語』成立の重要な要素として唱導があったことについては複数の学者によって指摘されており、浄瑠璃や幸若舞も、その源流は唱導文学にさかのぼる。荒木(1973)p.316
  6. ^ 室木弥太郎は、現行の『自然居士』は世阿弥の改作であろうと推定している。謡曲『自然居士』は実在の自然居士をモデルにし、それを美化した作品である。室木(1977)p.406
  7. ^ 天保15年(1844年)成立の『尾張志』には、尾張国に自然居士の弟子東岸居士を祭るものがあり、それはささらをする戸籍外の遊民であるとの記録がある。室木(1977)p.406
  8. ^ 蝉丸は、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」で知られており、詳細は不明ながら、醍醐天皇第4皇子で琵琶の名手だったが、盲目のため逢坂山に捨てられたという伝説をもつ。室木(1977)p.405
  9. ^ 蝉丸法師の実体は廻国性をもつであったと考えられるが、『御巻物抄』によれば、蝉丸は妙音菩薩の化身で、衆生済度を願い、逢坂山を通る旅人に乞食をするが、それは利益方便のためであって心中少しも卑劣に思うところはないと記している。室木(1977)p.405
  10. ^ 喜多村信節『筠庭雑考(いんていざっこう)』にも、慶長年間の絵としてささら説経のようすが描かれている。岩崎(1973)pp.8
  11. ^ 説経が語られた大寺院としては、他に、大坂の四天王寺、京都の清水寺、江戸の増上寺などが考えられる。荒木(1973)p.309室木(1977)p.405
  12. ^ 上方では山本土佐掾岡本文弥宇治加賀掾らが、江戸では杉山丹後掾江戸肥前掾、江戸半太夫らが浄瑠璃語りの太夫として活躍していた。岩崎(1973)p.16
  13. ^ 歌舞伎踊りの創始者といわれる出雲阿国佐渡国を訪れたと伝えられている。室木(1977)p.412
  14. ^ 江戸孫四郎が堺町、結城孫四郎が葺屋町(ともに現在の千代田区日本橋人形町の一画)で説経操りを興行していたと記録されている。岩崎(1973)p.14
  15. ^ 荒木繁は、横山重の先行研究なども参照して、赤木文庫蔵絵入写本『せつきやうかるかや』(仮題)、御物絵巻『をくり』について、「古説経」に準ずるものとしている。荒木(1973)p.312
  16. ^ 荒木繁は、郡司がこのように説明する根拠について調べたが、その出典は結局わからなかったと述べている。荒木(1973)p.317
  17. ^ 儒者(古学の徒)である春台は、説経節の曲節がゆるやかで、華やかさのないところを、善悪因果を語るところとあわせ、かなり好意的に評価している。岩崎(1973)pp.17-21
  18. ^ 『言継卿記』の記述からだけでは、天正20年段階で、浄瑠璃の伴奏に三味線が使われたかどうかは不明である。室木(1977)p.401
  19. ^ その場合、舞のある語りは無論のこと、舞のない語りも「舞」と称した。室木(1977)p.403
  20. ^ 外『山椒大夫』が発表されてすぐ、柳田国男はすぐに自らの主宰する『郷土研究』で取り上げている。柳田はこのなかで「さんしょう」は本来「散所」ではないかとして「山荘太夫」と表記している。塩見(2012)p.87
  21. ^ 折口信夫は、高安長者伝説の「最原始的な物語」の再現をめざして小説化をはかった。折口は、『身毒丸』「附言」において「わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐる」と記している。折口信夫『身毒丸』

出典

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  31. ^ 伊藤(1999)p.284
  32. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 室木「解説」(1977)pp.400-404
  33. ^ a b c d 荒木・山本「まえがき」(1973)
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  40. ^ 佐渡市. “佐渡市の文化財「佐渡の人形芝居」”. 2014年2月19日閲覧。
  41. ^ 埼玉県横瀬町. “横瀬の人形芝居”. 2014年2月19日閲覧。
  42. ^ 八王子車人形西川古柳座”. 2014年2月19日閲覧。
  43. ^ 説経節政大夫 大正大学、2015
  44. ^ 2010年度の総会報見世物学会、2010





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