説経節『さんせう太夫』
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津軽地方の山岳信仰の対象である岩木山には「山椒大夫」(安寿と厨子王丸)に登場する安寿が祀られている。 説教節では安寿は拷問によって非業の死を遂げるが、彼女を酷使して殺害した山椒大夫・山岡太夫らはいずれも丹後国の者であったため、弘前藩領に[丹後の人間が入ると安寿の怨霊によって災害が起こって人々を苦しめるとされた。江戸時代末期になってさえ、弘前藩では丹後の住人を忌避した。これは「丹後日和」と呼ばれた。天明8年 (1788年) 7月、江戸幕府巡見使の一員として弘前藩内に入った古川古松軒は、7月15日の日記に「丹後日和」のことを記録している。これによると、丹後の人が弘前藩内に入ると天候が荒れ災いが生ずるとされ、故に丹後の出身者は領内に一人もいない、というものだった。また同じ著述により、幕府巡見使の江戸出発に際して、幕府に対し津軽藩から一行の中に丹後出身者がいるか否かの照会があり、万一いた場合は構成員から除外して欲しいとの要望が出され、該当の人は一行から外されたと記録されている。古松軒自身は、丹後日和を妄説であると述べているが、津軽藩から要請された幕府はそれを拒否しなかった。 これは藩の公式の記録にも残っている。 弘前藩が自らの苛政を隠蔽し、領民の不満を丹後人に向けて逸らせようとする策であったとする説がある。
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