説経祭文の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
江戸では元禄以降、説経節が浄瑠璃に吸収されるかたちで衰退していったが、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文が始まった。また、享和(1801年-1804年)年間には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させている。 説経祭文で語られる演目には、歌祭文同様、「賽の河原」「胎内さがし」「八百屋お七(お七吉三郎)」「お染久松」「お初徳兵衛」「小三金五郎」「お千代半兵衛」「お夏清十郎」「おしゅん伝兵衛」などの世俗的な作品があり、そのほか「俊徳丸」「愛護若」「苅萱」「小栗判官」などのように中世以来の説経節の演目もあった。もとより、野外芸能に回帰した説経祭文は、門や辻での芸能であることから、通常は段物の一段やサワリ部分だけを語るものであり、説経節がかつてもっていた宗教性は失われ、いちじるしく世俗化していった。 やがて説経祭文の系統から薩摩若太夫が出たものの、再興された説経芝居は衰えてしまった。ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。 説経祭文の演じ手は、くずれ山伏や瞽女が多かった。瞽女はまた、北陸地方の盆踊歌であった松坂節と歌祭文が結びついて生まれた「祭文松坂」と総称される楽曲を演じることも多かった。 なお、説経祭文が座敷芸化したものとして、幕末期の名古屋の「説経源氏節」(または単に「源氏節」)がある。これは、新内節の岡本美根太夫が説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始したものである。
※この「説経祭文の登場」の解説は、「説経祭文」の解説の一部です。
「説経祭文の登場」を含む「説経祭文」の記事については、「説経祭文」の概要を参照ください。
- 説経祭文の登場のページへのリンク