擬洋風建築 擬洋風建築の概要

擬洋風建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 01:32 UTC 版)

旧開智学校の車寄せと塔屋(立川流原田蒼渓の彫刻)

概要

錦絵に描かれた築地ホテル館
山形県に造られた擬洋風の官庁街(高橋由一筆)

明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく[3]。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった[3]。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計監理されたが[4][5]、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手に委ねられた。

しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、に由来する洋式建築(組積造)は未知の存在だった。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や実物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも、一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた[3][6][7]

横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ大衆の反響を呼ぶ[8]。一方、山梨山形といった旧政治体制の影響力が強い地域では、土木県令と呼ばれる敏腕指導者が政府によって送り込まれ、殖産興業政策と平行して擬洋風建築による官庁街が新たに建設された[9]。また、廃仏毀釈によって解体された寺の跡地には小学校が建てられている[9]。擬洋風建築は、文明開化の象徴であると共に支配体制の移行を象徴するモニュメントでもあった[7][9]

歴史

横浜の和洋折衷建築

幕末の日本にやってきた外国人商人たちは、インド、東南アジア、南中国で慣れ親しんだ生活様式を営もうと外国人居留地でもヴェランダを巡らした建築を建設した。彼らは簡単な建築図面を日本人大工に示し、周辺で容易に入手できる材料で建設したため、大きな瓦葺屋根の日本風の建物が出現した。この例としてロレイロ邸(デント商会代理店、1862年、清水喜助)、英一番館(1863年)、フランス海軍病院(1865年)、フランス軍駐屯所(1864年頃)、ヘボン邸などがあげられ、和洋折衷といえども和風な箇所はみられなかった。

だが、1866年の豚屋火事によってこれらの建物は焼失し、居留地の都市的整備の進展や外国人技術者の登場によって、耐火性能を重視した建物に取って代わられていった。1867年に開港した神戸では当初から本格的な洋式建築が建てられ、横浜と同時に開港した函館も開拓使がアメリカ系の技術を採用したことで洋風化傾向が強まっていく。外国人居留地開設当初から横浜では一部の建物(イギリス領事館留置場など)に木造石貼構法が使われていたが、豚屋火事以後、簡便な耐火被覆としてなまこ壁がより流行した。

清水喜助の建築

開港と同時に横浜に店を開いた大工・初代清水喜助の跡を継ぎ、幕府公認の4人の請負人の一人に選ばれた2代目清水喜助は、1862年にロレイロ邸を建設し、その後アメリカ人建築技師リチャード・ブリジェンスと仕事をしていく中で西洋建築を学び、イギリス仮公使館を施工した。その後、清水喜助は、東京に築地ホテル館(1868年)と海運橋三井組(1872年)の2大洋風建築を建てた[8]

築地ホテル館は、旧幕府時代に計画された外国人向けホテルで基本設計をブリジェンスが担当した。全面になまこ壁を張り巡らし、中央に逓減を持たせた三重の塔を据えている。塔屋には華頭窓があけられ、軒先には風鐸をつるし、石造アーチの表門には木鼻がとりついている。なまこ壁はブリジェンスの基本設計にあったものだが、細部の和風意匠は清水喜助による[10][8]

海運橋三井組は、三井組が新たに創設した銀行のための建物である。木骨石造にベランダのついた洋風2階建ての軀体に、複雑に折り重ねられた屋根が乗っている。屋根には唐破風千鳥破風を取り付け、方形・八角形の塔を重ねている。さらにその両側には小塔まで置かれている。初期の案では普通の屋根のオーソドックスな洋風建築だったが、三井組の希望でこのような無国籍なデザインになった[10][8]

擬洋風建築の始点となったこの二つの建物は、たちまち東京の新名所となり、多数の錦絵に描かれ日本中に広まった[8]。地方から見物に来た人々の中には、柏手を打ったり賽銭を上げる人もいたという[8]。清水喜助はさらに、第一国立銀行に強制的に譲渡させられた海運橋三井組の代わりとなる駿河町三井組(1874年)も建設した[10]。海運橋三井組と違い端正な洋風建築だが、屋上にはが鎮座しており、こちらも錦絵の題材になっている[10]

林忠恕の木造官庁建築

横浜由来の洋風建築を持ち出した大工には、清水喜助のほかに林忠恕がいた。鍛冶、木挽きを経て大工に転身した林忠恕は、横浜でブリジェンス、ウィットフィールド、ドーソンなどの西洋人技師のもとで働き、イギリス仮公使館の工事にも参加した。その後、1871年末に発足した工部省に雇われ、官庁建築の営繕を担当した。1873年にはお雇い外国人のトーマス・ウォートルスが率いる大蔵省営繕寮に移り、日本人技術者の筆頭となる。ウォートルスが煉瓦や石の本格的な建築を手がける一方、林忠恕は大蔵省(1874年)、内務省(1874年)、神戸東税関役所(1873年)、駅逓寮(1874年)、大審院(1877年)といった木造官庁舎を手がけている[11]

建物の内容を見ると、ブリジェンスや清水喜助のような木骨石造ではなく、普通の壁には漆喰を塗りアーチやコーナーストーンにのみ石を貼る木骨石造の省略形となっている。建物の姿も、日本屋根が乗ったり塔が付いたりせず単調な四角形の内に納まり、唯一ペディメントと列柱のついた大ぶりな車寄せが張り出している。こうした構成にはパラディアニズムを好んだウォートルスの影響が見られる。擬洋風の建築表現としてはおとなしいが、中央官庁の建築ということで地方への影響力は強く、車寄せだけを強調したパラディアニズム崩しの構成は地方官庁の定型として広まっていった[11]

木造漆喰の小学校

学制発布を境に、小学校だけでなく郡役所、県庁、警察署といった地方の公共建築も洋風化を求められるようになる。各地の棟梁は東京、横浜、長崎などで擬洋風やベランダコロニアルの洋式建築を見聞し、国許に小学校や役所を建てた。木骨石造系の擬洋風から一歩進んだこれら木造漆喰仕上げの擬洋風は、中部地方の長野、山梨、静岡の三県で最もよく盛り上がった[12]

中でも特に盛り上がったのは山梨で、県令藤村紫朗のもと藤村式建築と呼ばれる一連の擬洋風建築が建てられた[12]。藤村紫朗は山梨赴任前に、小学校発祥の地である京都を経て、大阪で擬洋風の小学校建設を推進した人物で、琢美学校(1874年)と梁木学校(1874年)を皮切りに多数の擬洋風建築を建設している[12]。立方体の主体部に太鼓楼を載せた形式を持つ小学校は他の地域ではあまり見られないが、琢美学校とほぼ同時期に大阪の東大組第十九区小学校(1973年)や滋賀県長浜の開知学校(1874年)が建てられていることから、この形式の発信源は大阪にあるとみられる[13]

山梨に続いて、静岡には見付学校(1875年)や坊中学校(1875年)、西之島学校(1875年)が、長野には中込学校(1875年)や開智学校(1876年)が建てられた。開智学校は設計に当たって東京や山梨の擬洋風が参考にされており、後を追って造られた諏訪盆地の高島学校(1879年)、山一つこえた格致学校(1878年)、隣村の山辺学校(1885年)などに影響を与えている。このように先進地に建てられた小学校は周囲の地域に影響を与え、木造漆喰系の擬洋風は全国に広まった[12]

下見板の擬洋風

漆喰系の擬洋風がピークを迎える頃、下見板にペンキを塗って仕上げる擬洋風が登場し、擬洋風の晩期に広まった。下見板張りの擬洋風は山形県東京府から始まるが、質と量から影響力は山形の方が大きいと考えられる[14]

山形では1876年(明治9年)の朝暘学校を皮切りに、県庁舎1877年〈明治10年〉)、師範学校1878年〈明治11年〉)、済生館1879年〈明治12年〉)といった大作や、郡部に西田川郡役所(1881年〈明治14年〉)、鶴岡警察署1884年〈明治17年〉[15])などが建てられた。

建設ラッシュは1876年(明治9年)から1881年(明治14年)まで5年間続き、造られた建物は主なものだけでも28件に及ぶ。札幌鶴岡の間で技術交流があった山形県では、開拓使から下見板張りのアメリカ風建築が伝わり、こうした擬洋風建築が建てられた。建設を主導した県令三島通庸は、転任先においても福島県伊達郡役所1883年〈明治16年〉)や南会津郡役所1885年〈明治18年〉)、栃木県庁舎など、下見板張りの擬洋風建築を建て続けた[14]

東京市では1874年(明治7年)竣工の工部省が下見板張り擬洋風の第一号だが、しばらくその後続はなく、1877年(明治10年)になってから学習院駒場農学校、一ツ橋講堂、1877年(明治10年)に元老院などが建てられた。これらは大蔵省営繕寮によるもので、木骨石造系を建てていた中央官庁の技術陣は明治10年に入ると下見板系に転じている[14]

伝統の木造技法で容易く作ることができ、日本の風雪にも強い下見板の擬洋風は明治10年代を通じて東北三県と東京に根付いた後、明治20年代に入って日本列島全域に広まったと考えられている。写真館や医院など全国に残る下見板の簡便な西洋館は、この下見板の擬洋風の末裔にあたる[14]

擬洋風の終焉

オリジナリティの高い建築が作られていた擬洋風建築であるが、明治10年代後半になるとどこか似通った形をとるようになってくる。塔屋が設けられなくなり、寄棟造二階建の棟の中央に三角ペディメントを戴く二層車寄せを設ける形式が一般化していく。本庄警察署(1883年)、氷上郡各町村組合立高等小学校(1884年)、宇和島警察署(1884年)など、地域的な偏りがなく同時期にこうした形式の建築が建てられた。情報不足ゆえに多様性を生んでいた擬洋風のデザインは、時間の経過と共に情報が増加し定型化されていく[16]

官庁舎の建築形式が標準設計化していったことも、定型化を促す要因となった。1877年から1881年の間、府県庁舎建設費が国費支弁になり、新築に際して国の審査が厳しく行われるようになった。結果として内務省庁舎の形式がほとんど唯一の選択肢となり、形式が平準化していく。1881年7月に工費が地方負担に変更されるが、この頃になると官庁舎の設計に建築家が関与するようになり、擬洋風の時代は終焉に向かっていた[16]

小学校建築も、1877年前後から各県において学校建築法が制定され、学校建築に計画概念が導入されはじめる。1890年には小学校設備準則、1895年には学校建築図説明及設計大要が制定され、それまで各府県において指導されていた学校建築が政府によって一元的に指導されるようになった。その結果、小学校の平面は片廊下の棟を数棟並べた形式に収斂していく。また、和風校舎と比べ工費や修繕費が高く付くことから擬洋風校舎の建設が避けられるようになる。こうして、日本の小学校建築からデザイン意識そのものが急速に失われていった[16]

さらに、1887年(明治20年)頃から擬洋風建築には種々の改造が施されるようになる。南方起源で日本の気候に合わないベランダは建具をはめられ室内化し、軒が浅いために剥離しやすい漆喰壁は下見板で覆われた。擬洋風の最大の特徴である塔屋や車寄せも、より本格的な西洋建築に近づけるため撤去あるいは改変されていった[16]

評価

擬洋風建築は当時「西洋造」や「洋風家造」「西洋型家屋ニ模」したもの「洋風模造」などと呼ばれていた。同時代から「模造」だと認識されていたが、これは本来石造、煉瓦造で造られるべきものを木造で代用したもの、つまり様式上の模造ではなく構造上の模造として認識されていた[17]

明治10年代後半以降、工部大学校を卒業した日本人建築家たちが活動を開始すると、西洋建築を直写した建築が建てられた。諸外国との不平等条約を解消したい明治政府にとって、近代化とは性急な西洋化に他ならなかった。こうした趨勢の中、明治初期の擬洋風建築は様式的正確さを欠いた恥ずかしいものとして断罪される。批判の中で擬洋風建築はまとまりのあるものとして認識されるようになり、模造の対象も構造から様式に読み替えられた[17]

大正期になると、明治期の洋風建築を再評価する動きが活発に見られるようになる。建築家たちが自己の表現を強く意識しはじめたこの時期、擬洋風建築も独創性の発露として高く評価された[17]

戦後、擬洋風建築には「見よう見まね」という評価が決まり文句のように結びつけられるようになる。1950年代後半から始まる明治建築の本格的な研究においても、コロニアルスタイルの稚拙な模倣として位置づけられていた。1960年代から擬洋風建築が文化財指定されるようになるが、様式よりも近代化に貢献する文化的意義がその評価の中心に据えられていた[17]

1970年代になると、西洋の模倣にとどまらない独創性に富んだ建築という積極的な評価が復活する。これ以降の専門家たちは「擬洋風」の語が、ニセモノとしてのニュアンスを感じさせることを嫌い、別の語に置き換える提案をしている[17]


  1. ^ 藤森照信 1993, p. 89-90.
  2. ^ a b 本田榮二『ビジュアル解説 インテリアの歴史』秀和システム、2011、432-436頁。 
  3. ^ a b c 清水重敦 2003, p. 28-30.
  4. ^ 藤森照信 1993, p. 59-86.
  5. ^ 藤森照信 1993, p. 161-205.
  6. ^ 藤森照信 1993, p. 132-135.
  7. ^ a b 藤森照信 1993, p. 151-157.
  8. ^ a b c d e f 藤森照信 1993, p. 90-96.
  9. ^ a b c 清水重敦 2003, p. 63-69.
  10. ^ a b c d 清水重敦 2003, p. 27-28.
  11. ^ a b 藤森照信 1993, p. 97-101.
  12. ^ a b c d 藤森照信 1993, p. 102-115.
  13. ^ 清水重敦 2003, p. 40.
  14. ^ a b c d 藤森照信 1993, p. 118-132.
  15. ^ 旧鶴岡警察署庁舎”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年4月5日閲覧。
  16. ^ a b c d 清水重敦 2003, p. 70-75.
  17. ^ a b c d e f g h 清水重敦 2003, p. 20-24.
  18. ^ 清水重敦 2003, p. 77-80, 平成の大合併によって所在地名が変更されているものは、変更後の地名を記載した。
  19. ^ 越野武 1985.
  20. ^ 北海道浦河町役場.
  21. ^ 北海道近代建築研究会 2004, p. 140.
  22. ^ 米山勇 2010a, p. 193.
  23. ^ 八木谷涼子 2004, p. 96-97.
  24. ^ 白石市.
  25. ^ 警察資料館 | とよま振興公社”. toyoma.co.jp. 2021年3月29日閲覧。
  26. ^ 米山勇 2010a, p. 231.
  27. ^ 米山勇 2010a, p. 239.
  28. ^ ふじみ野市役所 2014.
  29. ^ 秩父市教育委員会事務局文化財保護課.
  30. ^ 千葉県立房総のむら.
  31. ^ 日本建築学会 2014, p. 4.
  32. ^ 高橋央 2011.
  33. ^ 文化庁 2005.
  34. ^ 米山勇 2010b, p. 64.
  35. ^ 米山勇 2010b, p. 46.
  36. ^ 文化庁 2003a.
  37. ^ 文化庁 2003b.
  38. ^ 佐用町議会事務局 2013.
  39. ^ 米山勇 2010b, p. 168.
  40. ^ たんしん地域振興基金.
  41. ^ 湯梨浜町.
  42. ^ 文化庁 2009.
  43. ^ a b 岡山県文化財課 2012.
  44. ^ 文化庁 1997.
  45. ^ 山口県教育庁社会教育・文化財課.
  46. ^ 米山勇 2010b, p. 193.
  47. ^ 米山勇 2010b, p. 201.
  48. ^ 米山勇 2010b, p. 204.
  49. ^ 米山勇 2010b, p. 211.
  50. ^ 文化庁 2011.
  51. ^ a b 長崎県学芸文化課.
  52. ^ 清水重敦 2003, p. 24-25.


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