坂上二郎 プロフィール

坂上二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 00:35 UTC 版)

プロフィール

鹿児島県鹿児島市出身。2歳のとき家族で満州国に渡り、同国の首都の新京と当時は中華民国の支配下にあった北京で育ち、小学校1年生のとき鹿児島に戻る[2]

コメディアンデビュー

鹿児島市立清水中学校[3]を卒業後、鹿児島市内の百貨店丸屋呉服店に勤務[4]する。1953年、『のど自慢素人演芸会』で鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京する。さまざまな職業を経て青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会者を経て、1954年に内海突破門下となり[5][6]、漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」を結成。解散後、「安藤ロール」の名のままストリップ劇場・「浅草フランス座」のコメディアンとなり、阿部昇二に師事。幕間コントで萩本欽一と共演した。萩本と出会ったのは1962年の秋のことだったが、年齢も芸人のキャリアも坂上が上だったこともあって、当時はお互い楽屋で口も利かない関係だった[7]1963年頃に中川プロダクションに所属。そこで後に自分たちのマネージャーとなる浅井良二に会う(浅井は当時中川プロで三木のり平八波むと志のマネージャーをしていた)[7]。しかし中川プロが大幅なリストラを断行することになり、坂上はその“リストラ要員”に含まれて退所する[7]

コント55号

キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本と再会し、お笑いコンビコント55号」を結成する。初めは歌手を目指したがさっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま麻雀のメンバーが足りず萩本に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場日本劇場などで人気を博し、当時の演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、一世を風靡することになった。コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。

また、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』では下ネタを嫌う萩本に対し、率先して汚れ役を引き受け、アイドル歌手やグラビアタレント相手に野球拳を行った[注 1]

俳優

コント55号として活動中の1972年頃より役者としても活動し、1976年にコンビとしての活動中断以降は本格的に出演した(相方の萩本は舞台やバラエティーを中心に出演)。『夜明けの刑事』で連続テレビドラマ初主演を果たした。

なお長男の洋雄は坂上大樹の芸名で1974年に映画「愛と誠」でデビューしている[8]

歌手

コメディアン、俳優と並行して念願の歌手としても活動した。1974年に『学校の先生』が約30万枚を売り上げて[9]ヒットした。その後は『風まかせ 新・諸国漫遊記』テーマソングとなる『風まかせ』や、ユニコーンとのコラボレーションである『デーゲーム』などを歌う。美声と独特の節回しで知られる。また、坂上の声が『柿の木坂の家』で有名な青木光一に似ているとも言われる。もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。

晩年

2003年9月25日木曜日)にゴルフのプレイ中に脳梗塞で倒れたが[10]、同伴競技者に医師がいたため、その場ですぐに適切な応急処置を施され病院に搬送。幸い軽度で済み、必死のリハビリ2004年6月に復帰した[11]

2005年4月21日に、歌手としては5年ぶりの新曲CD『必殺!人生送りバント/飛びます音頭』を発売した。『必殺!〜』は、坂上の波瀾万丈の半生を題材に、さだまさしが作詞・作曲を手掛けた。

2005年6月4日には、栃木県那須塩原市に転居。お笑い芸人の育成学校『那須お笑い学校』の名誉校長に就任した。また同時期に、それまで居住していた東京都練馬区平和台駅前)にも、自らが学院長を務める『総合芸能学院キャメルアカデミー』を開校した[12]

2006年5月6日、地元で結成された社会人野球チームの鹿児島ホワイトウェーブの総監督に就任した。背番号は茨城ゴールデンゴールズ萩本欽一と同じ55

2010年8月13日に自宅の台所で再び脳梗塞で倒れた。その際に頭を強打し、病院に搬送され入院した。首から下が麻痺し、手足が動かせない状況となったため、2011年1月2日より開幕する明治座初春特別公演の出演は取り止めとなった[13]

最期

2011年3月10日午前9時40分、脳梗塞のため栃木県那須塩原市の病院で死去[14][1][15]。76歳没。戒名慈照院和道法郎居士(じしょういんわどうほうろうこじ)。

坂上の訃報を受けて萩本欽一は、取材先の富山から飛行機で帰京した羽田空港にて報道陣に囲まれ「悲しい。さびしい。二郎さんのばか」と漏らした[16]。また「コント55号は最高だった。二郎さんのおかげで楽しい笑い人生になった。坂上二郎を忘れません」と、長年の相方を偲ぶコメントも発表している[17]

事務所の後輩で、『カックラキン大放送!!』で共演した関根勤は「二郎さんは俺自身のアイドル的存在でお笑いの道を目指すきっかけを作った」、同じく事務所の後輩の小堺一機は「また、昭和の芸能界の偉大な先輩にお別れしなければならない。残念でさびしい」とそれぞれコメントした。また昭和九年会の仲間でもあり、『ぴったし カン・カン』で共演した藤村俊二やドラマ『夜明けの刑事』で共演した石橋正次、坂上の物真似を持ちネタとしていた片岡鶴太郎、かつて「デーゲーム」でコラボしたUNICORNなども哀悼のコメントを発表している[18]

3月13日、那須塩原市内の斎場にて家族葬が営まれ、萩本も2日前(坂上死去の翌日)に起こった東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響で交通事情が悪化する中で斎場に駆け付けた。出棺の際、坂上の遺影を抱いた萩本は「元気に見送ってあげてください。坂上二郎さんはただ今、飛びます、飛びました」と言って、長年の相方に最後の別れをした[19]

萩本は「死んだ日が二郎さんらしかったよね。ちゃんと報道してもらうためには、ギリギリのタイミングだったんだもん」と述懐している[16]

坂上死去の直後に東北地方太平洋沖地震が発生したことにより、テレビ各局は特別報道態勢の関係で追悼番組などに関して製作・放送を見送る形となっていた[注 2]。一周忌を経た2012年、日本テレビが『欽ちゃんのありがとう二郎さんツアー』と題した追悼特別番組を制作し、5月19日土曜ロータリー枠で放送した[20]


注釈

  1. ^ 厳密には下ネタそのものを嫌うというよりも師匠である東八郎から「下ネタとダジャレは素人にあげたネタだから、プロがやっちゃいけない」と教わったのを守っているため。ただ、このスタンスを崩さなかったため、番組に対する印象は異なっており、萩本は本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかず大嫌いな番組に上げる一方で、坂上は、この番組で脚光を浴びたことから代表番組に上げている。
  2. ^ 地上波における追悼番組はなかったが、WOWOWでは2011年3月21日に坂上の追悼特番として、坂上が過去に出演した舞台公演を放送した。

出典

  1. ^ a b c “坂上二郎さんが死去…「コント55号」で国民的人気”. スポーツ報知. (2011年3月10日). オリジナルの2011年3月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110312034358/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110310-OHT1T00174.htm 2011年3月10日閲覧。 
  2. ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、213頁。
  3. ^ 坂上二郎さん死去:「みんなの誇り」鹿児島の友人ら悼む 毎日新聞 2011年3月10日閲覧参照
  4. ^ 訃報 坂上二郎さん 3月10日死去 - ウェイバックマシン(2015年4月27日アーカイブ分)
  5. ^ コント55号(こんとごじゅうごごう)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月20日閲覧。 “坂上二郎は、34年鹿児島生まれ。54年、内海突破氏に弟子入りし、安藤ロールの芸名で東宝名人会に出演。”
  6. ^ すこやかに生きるために”. 三豊・観音寺市医師会. 2024年4月20日閲覧。 “坂上二郎氏紹介(中略)1954年内海突破氏に弟子入り。”
  7. ^ a b c 昭和40年男(クレタパブリッシング)2020年8月号増刊「生きざまに憧れた昭和の男たち#4 萩本欽一の永遠の相棒 坂上二郎」(38-39頁)
  8. ^ 週刊平凡1974年4月11日号154頁
  9. ^ 坂上二郎さん初ベスト盤…ジャケ写は倉庫から“発掘”、ZAKZAK、2011年6月29日(2021年2月22日閲覧)
  10. ^ “脳梗塞(1)左手の感覚がない”. 読売新聞. (2007年7月1日). http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=24124 2011年3月10日閲覧。 
  11. ^ “脳梗塞(5) かっさい、一番の薬”. 読売新聞. (2007年7月29日). http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=24137 2011年3月10日閲覧。 
  12. ^ 総合芸能学院キャメルアカデミー - 練馬区タウン
  13. ^ “坂上二郎、入院していた…盟友・欽ちゃんが明かす” (日本語). スポーツ報知. (2010年10月27日). オリジナルの2010年10月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101029194651/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20101027-OHT1T00016.htm 2010年10月27日閲覧。 
  14. ^ “二郎さん妻と2人暮らし 自宅はひっそり”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2011年3月11日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110311-747083.html 2019年9月29日閲覧。 
  15. ^ “コント55号の坂上二郎さん脳梗塞で死去”. 読売新聞. (2011年3月10日). オリジナルの2011年3月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110313103105/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110310-OYT1T00694.htm 2011年3月10日閲覧。 
  16. ^ a b 朝日新聞別刷り「Be on Saturday」2011年6月18日付、b9面「順風満帆―萩本欽一(中)」より
  17. ^ 欽ちゃん、二郎さんに「ありがとうしかない」 サンケイスポーツ 2011年3月10日閲覧
  18. ^ “鶴太郎「ずっと二郎さんの背中を追ってきた」”. スポニチ Sponichi Annex. (2011年3月11日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/03/11/kiji/K20110311000403090.html 2017年3月21日閲覧。 
  19. ^ “欽ちゃん 二郎さんと最後の別れ” (日本語). 日刊スポーツ. (2011年3月14日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110314-748106.html 
  20. ^ “欽ちゃん「二郎さん」巡礼の旅番組”. 日刊スポーツ. (2012年5月5日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20120505-945471.html 2017年3月21日閲覧。 
  21. ^ 坂上二郎 - オリコンTV出演情報






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