四万十市 概要

四万十市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 00:46 UTC 版)

概要

四万十市街(中村城址から)
四万十川の流れと四万十市

平成22年国勢調査では県内第3位の人口を有する高知県西部の中心都市であり、市の中心部付近は四万十川によって形成された沖積平野である中村平野が広がっている。市域の大半は山林である。旧中村市の中心街は土佐一条氏により、その支配していた時代に京都を模して碁盤の目状に区画されており、「土佐の小京都」として知られる。主な観光名所として四万十川、為松公園(中村城址)、一條神社の他、ミニ八十八箇所で有名な石見寺等が挙げられる。ただし、1946年南海地震で中村市街地が被災し、古い町並はほとんど残っていない。

地理

中村地区中心部周辺の空中写真。
2015年8月3日撮影の9枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

山地

河川

  • 四万十川
  • 後川
  • 岩田川(四万十川支流)
  • 中筋川

海域

  • 土佐湾 - 今後発生が予見されている南海トラフ巨大地震の際には、市内の海岸に最大17mの津波が到達することが予想されている。これは高知県下の市町との比較で2番目に高い値(土佐清水市と同値)である[2]

気候

特に内陸部では夏の暑さが厳しく、北西からの風が吹くとフェーン現象に加え、太平洋からの海風も入りにくくなるため高温になりやすい。

  • 2013年(平成25年)8月12日13時42分に、旧西土佐村域の江川崎アメダスで最高気温41.0°Cを観測した[3]。これは、2007年(平成19年)8月16日に岐阜県多治見市埼玉県熊谷市で観測した最高気温40.9°Cを6年振りに上回り、2018年(平成30年)7月23日に埼玉県熊谷市で最高気温41.1°Cを観測するまでの5年間、国内の観測史上最高気温であった。
  • 同年の江川崎では上記の記録を含め、8月10日(40.7°C)、11日(40.4°C)、12日(41.0°C)、13日(40.0°C)の4日連続で最高気温40°C以上を観測した[3]。同一地点で4日連続で最高気温40°C以上を観測したのは、国内の観測地点では江川崎が唯一である。これを機に「41°Cプロジェクト」という住民グループを立ち上げ日本一暑い町のPRに力を入れた。
四万十市中村(中村地域気象観測所)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 21.4
(70.5)
24.4
(75.9)
26.6
(79.9)
30.5
(86.9)
34.0
(93.2)
35.1
(95.2)
38.5
(101.3)
39.8
(103.6)
36.9
(98.4)
33.4
(92.1)
26.7
(80.1)
23.4
(74.1)
39.8
(103.6)
平均最高気温 °C°F 11.6
(52.9)
13.0
(55.4)
16.3
(61.3)
21.1
(70)
25.1
(77.2)
27.1
(80.8)
31.5
(88.7)
32.4
(90.3)
29.4
(84.9)
24.7
(76.5)
19.2
(66.6)
13.8
(56.8)
22.1
(71.8)
日平均気温 °C°F 5.9
(42.6)
7.1
(44.8)
10.5
(50.9)
15.2
(59.4)
19.4
(66.9)
22.6
(72.7)
26.6
(79.9)
27.3
(81.1)
24.1
(75.4)
18.8
(65.8)
13.1
(55.6)
7.8
(46)
16.5
(61.7)
平均最低気温 °C°F 0.7
(33.3)
1.7
(35.1)
4.8
(40.6)
9.5
(49.1)
14.3
(57.7)
18.7
(65.7)
22.8
(73)
23.4
(74.1)
20.2
(68.4)
14.0
(57.2)
7.9
(46.2)
2.7
(36.9)
11.7
(53.1)
最低気温記録 °C°F −6.9
(19.6)
−10.4
(13.3)
−4.5
(23.9)
−0.7
(30.7)
3.9
(39)
10.7
(51.3)
14.2
(57.6)
16.0
(60.8)
9.7
(49.5)
2.4
(36.3)
−2.3
(27.9)
−5.3
(22.5)
−10.4
(13.3)
降水量 mm (inch) 91.3
(3.594)
116.9
(4.602)
189.9
(7.476)
212.5
(8.366)
262.8
(10.346)
418.2
(16.465)
317.6
(12.504)
335.5
(13.209)
438.7
(17.272)
260.1
(10.24)
137.4
(5.409)
97.2
(3.827)
2,877.9
(113.303)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 8.4 8.8 11.4 10.4 10.6 15.0 12.4 12.5 13.1 9.0 8.2 8.1 127.9
平均月間日照時間 170.8 164.2 186.0 194.5 189.3 126.2 185.3 206.8 155.6 173.7 162.0 169.2 2,083.6
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1976年-現在)[4][5]
四万十市江川崎(江川崎地域気象観測所)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 21.7
(71.1)
24.9
(76.8)
26.8
(80.2)
31.5
(88.7)
34.3
(93.7)
36.5
(97.7)
39.8
(103.6)
41.0
(105.8)
37.3
(99.1)
33.2
(91.8)
29.7
(85.5)
23.8
(74.8)
41.0
(105.8)
平均最高気温 °C°F 10.2
(50.4)
11.7
(53.1)
15.5
(59.9)
20.9
(69.6)
25.2
(77.4)
27.4
(81.3)
31.6
(88.9)
32.7
(90.9)
29.2
(84.6)
24.0
(75.2)
18.1
(64.6)
12.4
(54.3)
21.6
(70.9)
日平均気温 °C°F 4.9
(40.8)
5.9
(42.6)
9.3
(48.7)
14.2
(57.6)
18.7
(65.7)
22.1
(71.8)
26.1
(79)
26.7
(80.1)
23.4
(74.1)
17.8
(64)
12.1
(53.8)
6.8
(44.2)
15.7
(60.3)
平均最低気温 °C°F 0.5
(32.9)
1.0
(33.8)
4.0
(39.2)
8.5
(47.3)
13.3
(55.9)
18.3
(64.9)
22.3
(72.1)
22.9
(73.2)
19.7
(67.5)
13.8
(56.8)
7.9
(46.2)
2.6
(36.7)
11.2
(52.2)
最低気温記録 °C°F −6.0
(21.2)
−7.0
(19.4)
−5.0
(23)
−1.7
(28.9)
3.4
(38.1)
8.9
(48)
14.6
(58.3)
14.9
(58.8)
9.4
(48.9)
2.7
(36.9)
−1.8
(28.8)
−6.9
(19.6)
−7.0
(19.4)
降水量 mm (inch) 71.2
(2.803)
94.2
(3.709)
151.3
(5.957)
166.6
(6.559)
204.9
(8.067)
355.2
(13.984)
347.5
(13.681)
316.8
(12.472)
361.6
(14.236)
168.5
(6.634)
103.1
(4.059)
83.1
(3.272)
2,423.7
(95.421)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 9.6 9.4 11.9 10.2 10.1 14.4 12.6 11.7 11.6 8.5 8.7 9.8 128.5
平均月間日照時間 139.2 145.7 173.2 185.7 183.6 120.2 171.0 192.3 144.6 166.1 146.7 131.5 1,909.3
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1977年-現在)[6][7]

人口

平成22年国勢調査では高知市、南国市に次いで高知県内3位であった。

四万十市と全国の年齢別人口分布(2005年) 四万十市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 四万十市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

四万十市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


隣接している自治体

高知県
愛媛県

歴史

地域史

幡多荘の成立

現在の四万十市は、古代の行政区画では土佐国西部の幡多郡に含まれる。土佐国に、ヤマト王権が任命する地方官である国造として、都佐(とさ)国造波多(はた)国造があり、波多国造は幡多郡を本拠地とした豪族と推定されている[8]

10世紀初めに成立した延喜式では、土佐国西部に幡多郡が設けられている。その郡司として、秦氏の名前が見える[9]

12世紀後半、藤原忠通が土佐国の知行国主となった時から、幡多郡と摂関家との関係が生じた[10]。源平の争乱後、源頼朝がいったん平氏から没収し、忠通の子九条兼実に引き渡したものと考えられる[11]。そのため、土佐国守護も容易に介入できない地域であった。兼実は、1206年元久3年)、息子の九条良経が亡くなった時、その知行国であった越後・讃岐の代わりに後鳥羽上皇に土佐を希望し、これを九条家分国とした。翌1207年、兼実が亡くなると、孫九条道家が知行国を継ぎ、九条家諸大夫の源有長を土佐守に推挙した。有長の土佐守在任中の1220年代に、幡多郡の大半が九条家の荘園となり、1237年嘉禎3年)の寄進状に初めて「土左国幡多御庄」の名が見える。道家は、1250年幡多荘を含む荘園を三男一条実経一条家の祖)に譲り渡した[12]。一条家の幡多荘は、概ね旧中村市に当たる本荘のほか、幡多郡内の大方(おおがた)荘、山田荘、以南(いなん)荘、隣接する高岡郡内の久礼(くれ)別府から成っており、徐々に周囲を取り込んで拡大していった[13]

現在の四万十市の中の具同村が、平安時代から幡多郡郡衙が置かれた群の中心地であり、一条家もここに奉行所を置いて、村々の預所と呼ばれる荘官たちを束ねさせた[14]

南北朝時代になると細川氏が土佐国守護に就き、守護代を派遣していたが、一条家の荘園であった幡多郡には、守護の支配権がほとんど及ばなかった[15]

土佐一条氏の統治
一条氏を祀る一條神社

応仁の乱が始まり、公家たちが相次いで京都を離れる中、一条教房は、1468年応仁2年)9月、海路土佐に下向し、幡多荘に入った。これが土佐一条氏の祖である。教房は、具同に代わり幡多荘の中心となっていた中村に邸宅を構え、中村館、幡多御所などと呼ばれた。教房は、以南村加久見(現土佐清水市)の領主加久見氏の娘を後妻に迎えるなど、地元の有力国人と結びつきながら、積極的な直務支配を進めていった[16]

1480年、教房が亡くなった時、その子一条房家は4歳であったが、国人・土豪層に擁立されて土佐一条氏を継いだ[17]。その孫一条房基の代には、幡多郡・高岡郡を支配する公家大名となったといえ、戦国時代の他の大名・国人と同じように、家臣や寺社に対して宛行状や寄進状を発している[17]。房家は、豊後水道を挟んだ九州を支配する大内氏に二男義房(大内晴持)を養子に入れ、大内氏が滅亡した後は、房基やその子一条兼定が、大友氏と姻戚関係を結んでいる。南海路を介してや南方との対外交易に関わっていたことも窺える[18]

16世紀には、土佐中部・東部で長宗我部国親元親が支配を固めた。1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城津野氏と久礼城の佐竹氏が長宗我部氏に服属すると、一条氏の家臣団は和平派と反長宗我部派に分裂し、1573年天正元年)、和平派が兼定に隠居を迫り一条内政を擁立した。兼定は、妻の実家大友宗麟を頼って中村から落ち、翌1574年(天正2年)に宗麟の支援を受けて中村の奪還を図ったが、四万十川の戦い(渡川の戦い)で敗れた[19]

近世

長宗我部元親は、1575年(天正3年)に土佐統一を完成する一方、中村城に弟吉良親貞を入れ、伊予に進攻させるなどし、1585年(天正13年)に四国統一を達成したが、豊臣秀吉に屈服し、土佐一国の安堵に甘んじた[20]。元親は、その後も、幡多郡と安芸郡を中五郡から分け、中村城代の桑名氏らに幡多郡の統治を委ねた[20]。しかし、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親のついた石田三成方が敗れ、長宗我部氏の支配は終焉を迎えた[20]

1600年11月、山内一豊が土佐藩の領主として入り、弟山内康豊を中村に置き、3万石を与えた。康豊の孫山内忠直の代、1656年明暦2年)、中村は幕府内で3万石の認知を受け、1663年寛文3年)には領地の配分が進められ、財政的な独立性も有する支藩としての性格を強めた。ところが、中村藩3代目に当たる山内豊明が、1689年元禄2年)、若年寄を拝命した時の将軍の褒詞に対する返礼が不適切であったとされ、改易され、中村の土居屋敷・侍屋敷は破壊を命じられ、所領も没収された。所領は1696年(元禄9年)土佐藩に返還され、中村には幡多郡の郡奉行所が置かれた[21]

中村は、近世から近代に至るまで、幡多郡の政治・経済の中心であり、周辺地域から「御町(おまち)」と呼ばれた。18世紀半ば頃の家数は480余軒、人口1897人であった[22]

沿革


  1. ^ 四万十市章”. 四万十市. 2015年5月2日閲覧。
  2. ^ 資料1-3 市町村別平均津波高一覧表<満潮位>”. 内閣府防災情報のページ (2012年8月29日). 2024年2月16日閲覧。
  3. ^ a b 江川崎 2013年8月(日ごとの値) 詳細(降水量・気温)
  4. ^ 平年値(年・月ごとの値)”. 気象庁. 2023年10月閲覧。
  5. ^ 観測史上1~10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2023年10月閲覧。
  6. ^ 平年値(年・月ごとの値)”. 気象庁. 2024年3月閲覧。
  7. ^ 観測史上1~10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2024年3月閲覧。
  8. ^ 荻ほか (2001: 30-31)。
  9. ^ 荻ほか (2001: 35-39)。
  10. ^ 荻ほか (2001: 72)。
  11. ^ 荻ほか (2001: 86-87)。
  12. ^ 荻ほか (2001: 92, 97)。
  13. ^ 荻ほか (2001: 105-06)。
  14. ^ 荻ほか (2001: 107)。
  15. ^ 荻ほか (2001: 108-16)。
  16. ^ 荻ほか (2001: 122-24)。
  17. ^ a b 荻ほか (2001: 130-31)。
  18. ^ 荻ほか (2001: 135-36)。
  19. ^ 荻ほか (2001: 151-52)。
  20. ^ a b c 荻ほか (2001: 152-55)。
  21. ^ 荻ほか (2001: 181)。
  22. ^ 荻ほか (2001: 181-82)。
  23. ^ 四万十市の概要”. 四万十市. 2015年4月28日閲覧。
  24. ^ 学校紹介”. 四万十市 (2022年4月20日). 2022年6月27日閲覧。
  25. ^ 高知・四万十市、京都看護大学の学部誘致断念を正式表明”. univ-journal.jp. univ-journal.jp. 2023年1月4日閲覧。
  26. ^ a b c d 西土佐小学校と統合となっているが休校扱い
  27. ^ 集落活動センターとは|えいとここうち”. www.eitoko.jp. 2022年9月11日閲覧。






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