吉野源三郎
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吉野 源三郎 (よしの げんざぶろう) | |
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誕生 |
1899年4月9日 東京府(現・東京都) |
死没 | 1981年5月23日(82歳没) |
職業 | 編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部哲学科卒業(1925年) |
活動期間 | 1937年 - 1981年 |
文学活動 | 平和問題談話会 |
代表作 | 『君たちはどう生きるか』(1937年) |
主な受賞歴 | 第06回産経児童出版文化賞(1959年) |
デビュー作 | 『君たちはどう生きるか』(1937年) |
経歴
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1899年(明治32年)、東京府(現・東京都)出身。父は株式取引所仲買人であった。
1912年(明治45年)、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)卒業。1917年(大正6年)、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1918年(大正7年)、旧制第一高等学校に入学。1922年(大正11年)、2留の末第一高等学校を卒業し[1]、東京帝国大学経済学部に入学。思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。
1925年(大正14年)、26歳で東京帝国大学文学部哲学科を卒業。思い立って陸軍に入隊する。歩兵少尉で除隊後の1927年(昭和2年)、東京大学図書館に就職。このころから政治に関心を持ち、社会主義系の団体の事務所に出入りするようになる。1931年(昭和6年)に治安維持法事件で逮捕、懲役2年執行猶予4年の有罪判決を受ける。これにより正八位返上を命じられる[2]。このとき抱いた軍国主義への不信感が、後年の反戦活動、理想主義的な思想体系を形作ったと考えられる。
1935年(昭和10年)、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。1937年(昭和12年)には明治大学講師[3]に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行し、岩波書店に入社[4]。1938年(昭和13年)、岩波新書を創刊[4]。1939年(昭和14年)、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。
1946年(昭和21年)、雑誌『世界』を創刊し、初代編集長に就任[4]。いわゆる「戦後民主主義」の立場から、反戦・平和の姿勢で論陣を張った。1950年(昭和25年)4月15日に平和問題談話会を結成し、1951年(昭和26年)の対日講和条約に関しては、米国を含む52ヶ国との単独講和ではなく、ソ連や中国も含めた全面講和論を主張した[4][5][6]。1959年(昭和34年)、「安保批判の会」結成に参加し、1960年(昭和35年)の安保闘争で活躍。この間、1949年(昭和24年)に岩波書店取締役、翌年に岩波書店常務取締役、1965年(昭和40年)に岩波書店編集顧問に就任した。
1975年(昭和50年)に広島で開催された「被爆30年広島国際フォーラム」の世話人を務めた。
評価
反戦への思いを熱く秘めたその作風は多くの支持を集め、『君たちはどう生きるか』は、刊行から70年経過した2003年(平成15年)の「私が好きな岩波文庫100」で5位にランクされた。岩波少年文庫各冊の終わりによせた「岩波少年文庫発刊に際して」という一文は、今もって評価が高い。また、温厚な人徳者として知られ、各方面に知己が多かった。2017年(平成29年)には、羽賀翔一によるマンガ『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)が人気を博し、原作の『君たちはどう生きるか』がブームとなった。
- ^ 『官報』第2922号、大正11年5月2日、p.43
- ^ 官報 1936年12月2日 五五頁
- ^ 『明治大学一覧 : 付・卒業生年度別 昭和12年11月』明治大学事務局、1937年11月、p.240
- ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ Yahoo!百科事典
- ^ 平和問題談話会「講和問題についての平和問題談話会声明」『世界』第51号、岩波書店、1950年3月、60-64頁、ISSN 0582-4532。
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