動乱時代 動乱時代の概要

動乱時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 02:32 UTC 版)

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セルゲイ・イワノフ作『動乱時代』(19世紀末)

1601年から1603年にかけて、ロシアは、当時の人口の3分の1に相当する200万人が死ぬというロシア大飢饉英語版に見舞われた。また、1610年から1613年にかけてはツァーリ不在の空位時期に陥った。さらに1605年から1618年にかけてのロシア・ポーランド戦争で、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に占領され、民衆の蜂起が起こり、皇位簒奪者皇位僭称者が次々現れた。

背景と大飢饉

1598年フョードル1世が没してリューリク朝が断絶したため、後継者問題が発生した。このとき、フョードルの義兄にして側近であり、既に精神を病んでいたフョードルに代わり摂政として統治にあたっていたタタール系の「大貴族ボリス・ゴドゥノフが、当時の身分制議会であるゼムスキー・ソボル(全国会議)によって後継者に選ばれた。リューリク朝の血をひかないゴドゥノフの短い在位期間(1598年 - 1605年)には、病弱なフョードルの治世よりも、さらに統治が困難に陥った。

この頃、南米のワイナプチナ火山が大噴火し、その噴煙が大気圏上層に達することで世界的な異常気象を引き起こしていた。ロシアでは1601年から1603年ロシア大飢饉英語版として知られる極端な凶作となり、夏でも夜の気温が氷点下に達し、作物を全滅させた[1]。飢餓は広がり、やがて大飢饉となった。政府は金銭や食糧をモスクワの貧民に配給したが、結局それは難民の首都への流入を招き、経済的混乱を加速させることになった。 寡頭制の一角を率いていたロマノフ家は、これ以上大貴族に従うことは恥辱であると考えた。陰謀が横行し、地方は飢饉とペストによって荒廃していった。武装した無法者の大集団が国中で跋扈し、あらゆる残虐行為が行われた。前線に立つドン・コサック軍は休むことなく動員され、政府は秩序維持不能を露呈していた。

やがて、ゴドゥノフの擁立に反対した有力な貴族たちの影響下で、ゴドゥノフを皇位簒奪者として敵視する不満の声が上がり始めると、先帝の弟で本来の皇位継承者であり、既に死んだはずのドミトリーが、実は生きていて身を潜めている、という噂が広まるようになった。

偽ドミトリーのモスクワ占領

殺害されるフョードル2世と母マリヤ

1603年偽ドミトリー1世、つまり一連のドミトリー僭称者の最初の人物が、自分こそがロシア皇帝位の正当な継承者であるとしてポーランド・リトアニア共和国に現れた。ドミトリーは、兄である先帝がまだ亡くなる前に刃物による不審死を遂げており、それはゴドゥノフの差し金による暗殺だと思われていた。

しかし、ドミトリーに成り済ました謎の人物が現れると、多くの人々が彼を皇帝位の正当な継承者と見なすようになった。偽ドミトリーは、ロシア国内でも、また、国外でも特にポーランドや教皇領では支持を集めた。ポーランド・リトアニア共和国の諸勢力は、彼をロシアへの影響力を拡大する道具とするか、少なくとも、彼を支持することで何らかの見返りを得ようとしていた。教皇は、東方正教会のロシアに対して、ローマ・カトリックの勢力を拡大する機会と考えていた。

同年、数ヶ月後、ポーランド勢は4000人という小兵力で国境を越えた。軍勢には、ポーランド人、リトアニア人、ロシア人亡命者、ドイツ人傭兵に加え、ドニエプル川ドン川流域のコサックが加わっていたが、これは、ポーランド・リトアニア共和国のロシアへの介入、一連の偽ドミトリーをめぐる戦乱のはじまりであった。この時点でポーランド・リトアニア共和国は、国王ジグムント3世が介入に反対していたこともあり、ロシアに正式な宣戦布告はしていなかったが、一部の有力貴族(マグナート)が偽ドミトリーを支持し、後々の見返りを期待して兵力や資金を提供していた。偽ドミトリーはポーランド貴族の女性マリナ・ムニシュフヴナと代理結婚式(花婿の代理人を立て、花婿不在のクラクフで挙式された)を行った。

1605年ボリス・ゴドゥノフが亡くなると、モスクワへの入城に成功した。ボリスの息子でツァーリとなっていたフョードル2世は、偽ドミトリーのモスクワ入城時に母とともに殺害された。一人残されたフョードル2世の姉クセニヤは、数ヶ月間偽ドミトリーに慰み物にされたあげく、その花嫁マリナ・ムニシュフヴナがモスクワ入りする直前、修道院に入れられた。

ヴァシーリー4世の治世

偽ドミトリーの治世は短かった。1年も経たないうちに、リューリク朝の血を引く公(クニャージ)のひとりであった野心家のヴァシーリー・シュイスキーが陰謀を企てた。シュイスキーの手勢は、クレムリンでの結婚式の直後に偽ドミトリー1世を殺害し、その支持者も多数虐殺した[2]。 シュイスキーとその手勢は、このときおよそ2000人のポーランド人を殺害したと考えられている。この虐殺に対する、ポーランドの反発は強かったが、政府は事件の責任者への報復を先延ばしにすることを決めた[3]

実権を掌握したシュイスキーはリューリクの男系子孫であることを理由に、自分の支持者を集めた議会で皇帝に選出され、ヴァシーリー4世となった。だが、この政変には、ロシアの大貴族、共和国のマグナート、コサック、ドイツ人傭兵のいずれもが不満をもった。

程なくして新たな僭称者である偽ドミトリー2世が現れ、イヴァン雷帝の息子にして正当な継承者は自分であると主張した。先行した偽ドミトリーと同じように、この僭称者もポーランド・リトアニア共和国のマグナートたちから保護と支持を得ていた。これに対抗してシュイスキーがスウェーデンと同盟を結び、ヤコブ・デ・ ラ・ガルディ英語版が率いるスウェーデン軍がロシア国内に介入した(デ・ラ・ガーディエ戦役)。ポーランド・リトアニア共和国国王ジグムント3世は、ロシアとスウェーデンの同盟関係を危機と見て、ロシアへの介入を決意し、ロシア・ポーランド戦争を始めた。

老齢のヴァシーリーを支えたのは若き甥のミハイル・スコピン=シュイスキーである。ミハイルは有能な将軍であり、偽ピョートルイヴァン・ボロトニコフロシア語版英語版による反乱が起こった際にその鎮圧などで多大な軍功を挙げた。このため、老齢で無力なヴァシーリー4世に代わって後継者として国民に望まれたが、1610年5月に24歳で急死した。


  1. ^ Borisenkov E, Pasetski V. The thousand-year annals of the extreme meteorological phenomena. ISBN 5-244-00212-0, p. 190.
  2. ^ John Stevens Cabot Abbott, The Empire of Russia; "The murderers ransacked the palace, penetrating every room, killing every Polish man and treating the Polish ladies with the utmost brutality."「殺人者たちは宮殿内をくまなく探しまわり、全ての部屋に押し入り、ポーランド人の男を皆殺しにし、ポーランド人の女たちに暴虐の極みを尽くした。」
  3. ^ John Stevens Cabot Abbott, The Empire of Russia; "The Poles were exasperated beyond measure at the massacre of so many of their nobles and at the insult offered to Mariana, the tzarina. But Poland was at that time distracted by civil strife, and the king found it expedient to postpone the hour of vengeance."「ポーランド人たちは、自国の貴族たち多数が虐殺され、マリアナが辱められたことに対して尋常ならず激怒した。しかし、当時のポーランドは内訌を抱えており、国王は、復讐の機会を先送りにするのが賢明であると判断した。」
  4. ^ The Tatar Khanate of Crimea, allempires.net
  5. ^ a b c Sergey Solovyov, History of Russia from the Earliest Times, Vol. 8.
  6. ^ Nikolay Kostomarov, Russian History in Biographies of its main figures, Chap. 30.
  7. ^ Dunning, Chester S. L. (2001). Russia's first civil war: the Time of Troubles and the founding of the Romanov dynasty. Penn State Press. ISBN 0271020741 






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