動乱時代後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 20:31 UTC 版)
「ニーコン (モスクワ総主教)」の記事における「動乱時代後の混乱」の解説
ニーコンが総主教となった17世紀なかばは、リューリク朝の断絶から動乱時代(スムータ、1598-1613年)までの混乱がようやく収まりかけた時期である。1613年に動乱時代が終わると、ミハイル・ロマノフがロマノフ朝の初ツァーリとなり、ミハイルの父フィラレートがモスクワ総主教の座に着いた。国家と正教会が一体となって、モスクワ国家の再建を始めたのであった。 教会関係の課題は、まず、動乱時代に他宗派諸国に占領されていた土地の正教徒への対応であった。彼らの儀礼は、モスクワ大公国の正教会とは、ずれができていた。西ルーシのルーシ人は、16世紀を通して、カトリックを国教とするポーランド・リトアニア共和国の支配下にあった。彼らは、コンスタンティノープル総主教庁の管轄のもとに正教を信仰していたが、同地の正教会は、イエズス会をはじめとするカトリック教会の圧力によって、1596年には、ローマ教皇の管轄権を受け入れざるを得なかった(ブレストの教会合同)。合同を進めたカトリック国王ジグムント3世ヴァーサの死後、西ルーシは、キエフ主教座を回復し、イエズス会の方法を取り入れた独自の正教教育を行いはじめた。カトリックやプロテスタントの教義や論争の影響により神学は洗練され、ラテン的な美術、音楽、文学が生みだされた。モスクワより早く、西ヨーロッパの優れた印刷技術を受け入れた西ルーシ正教会の本は、モスクワへも入り込んだ。モスクワ正教会にとっては、この西ルーシの新しい正教文化の波を、受け入れるのか、異端として排除するのかが、大きな問題となっていた。
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