フランス陸軍 歴史

フランス陸軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/01 23:11 UTC 版)

歴史

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最初の国家財政の裏付けのある常備軍としてのフランス軍は、シャルル7世(1403~1461)治下まで遡る。組織としての連続性を考えると、1789年のフランス革命からが適当であると考えられる。この革命により貴族傭兵を主体とする封建的軍としての歴史が終焉を迎え、組織的な近代国民軍が誕生した。

ナポレオン戦争

革命直後のフランスは周辺諸国から軒並み敵視され非常に危うい状態であった。この中で頭角を現したのがナポレオンである。彼とその参謀の手によりフランス陸軍は近代陸軍の編制をほぼ完成させた。師団軍団といった軍隊の組織編制はこのフランス陸軍をその源流としている。ナポレオンを第一統領に戴いて以降のフランスは後世ナポレオン戦争と呼ばれる一連の軍事行動を行った。この戦争でフランスは砲兵騎兵の効果的運用を行って戦争の勝利を手にした。結局多くのフランス人の血を犠牲にしてフランスは敗北を喫し王政が復活するが、革命によって出来上がった軍隊組織はフランスに根付き、欧州や欧州に倣った新興国(ラテンアメリカ諸国、チュニジア江戸幕府など)でもフランス式の軍事編成を採用するようになった。

19世紀

ナポレオン戦争によりフランスは成年男子が減少したため、フランス陸軍は外人部隊を創設するに至った。

この世紀間は、アジアアフリカにおいて植民地獲得競争の尖兵として各地に出兵していた。特に、アルジェリアメキシコチュニジアモロッコ西アフリカマダガスカル及びインドシナにおいてフランス陸軍は幾多の戦火を潜ったのであった。

ナポレオン以降の大きな試練として普仏戦争があり、フランス陸軍はプロイセン軍に敗北した後に、パリ・コミューンの鎮圧を行った。

第三共和政下のフランス陸軍は国内保守派(王党派やボナパルト派など)の牙城であり、政治に対する介入を仄めかすこともあったが、ブーランジェ将軍事件と、ドレフュス事件により軍の威信が低下したことを境に文民政府の統制が確立した。

20世紀

第一次世界大戦はフランス陸軍にとって初めての総力戦となり、西部戦線においては未曽有の損害がもたらされた。開戦当初、フランス陸軍は1,300,000名の人員を擁していたが、戦争中は最大8,300,000名まで拡大され(内300,000名は植民地からの動員)1,400,000名が死亡した。第一次世界大戦のあまりの損失により、戦間期には国民全体に厭戦気分が蔓延し、陸軍の装備や戦術の進歩は足踏み状態だった代わりにマジノ線が建造された。

しかし、ナチス・ドイツポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。速やかに動員体制に移行、しかし当初はまやかし戦争による小競り合いが続いた状況であった。やがてナチス・ドイツのフランス侵攻が遂に現実のものとなり、両軍激突することとなったが独軍の戦車部隊と機械化歩兵、そして航空機による電撃戦の前にほとんどの部隊が脆くも崩される結果となった。

本土に残された部隊は解散されたり、あるいはヴィシー政権軍となった。一部の部隊はイギリスやその植民地に逃れ自由フランス軍を結成。捲土重来を図るべく、北アフリカシリア等で独・伊軍やヴィシー政権軍と交戦し、フランス国民同士が相打つという悲劇も起きたが、最終的に自由フランス軍はヴィシー派から主導権を奪った。その後、ノルマンディー上陸作戦に参加、祖国解放の時が来たのである。また、南仏からも上陸を開始、パリをはじめフランスの諸都市は次々と独占領軍の手から解放され、ドイツ本土への進攻作戦が待っていた。

大戦後、第一次インドシナ戦争アルジェリア戦争と、植民地での独立闘争との戦いを余儀なくされ、それぞれ敗北する結果となった。特に、1958年のアルジェ動乱においてはアルジェリア駐留軍の将軍達が、ド・ゴールを支持、更に駐留軍所属の落下傘連隊がクーデターを宣言してコルシカ島に航空機で侵攻、同地を占領しフランス本土に脅威を与えた。

混乱を収拾するために1958年にド・ゴールが大統領に就任し第五共和政が成立した。アルジェリア駐留軍は人事刷新をし、駐留軍司令官に強硬派のサラン将軍が就任、断固として叛乱を鎮定する体制となった。しかし、世界情勢の変化や世論に押されて大統領と駐留軍将軍達そしてコロン(入植者)達とは思惑が違い、支持者の筆頭格であったマシュ将軍を解任、結果1961年将軍達の反乱が勃発。これは先進国の陸軍としては特異な現象であった。現地駐留軍による叛乱のみならずフランス本土にも戦火が飛び火しかねない事態になった[1]

この混乱は最終的にド・ゴールの意向によりアルジェリアが独立することを認められたことを機に沈静化に向かうこととなった。この叛乱に参加した部隊は、軒並み見せしめのように解散の措置がとられることとなった。アルジェリア戦争の最中や終結後にも第二次中東戦争チャド等に出兵し、フランスの海外利権を害する相手との交戦は常に辞さない構えであった。アルジェリア戦争において、フランス陸軍は秘密裏に独立派(FLN)ゲリラを拷問にかけたことが暴露され、国際的な非難を浴び、軍の威信の低下を招いた。

その後、政治的に安定しだした政府・政権と足並みを整えるかのように陸軍も体制・体系を改革しつつ西独正面にあるワルシャワ条約機構軍と対峙するが、時には1968年に発生した五月革命の鎮圧に陸軍が投入(これにはかつてド・ゴールに解任されたマシュ将軍による現体制支持があったとされる)されることもあった。

20世紀後半には湾岸戦争(ダゲ師団)や旧アフリカ植民地諸国にも派兵され、やがて冷戦の終結とともに陸軍の大改革(大規模縮小と徴兵制から志願制への移行、各機関の統合)を実行する。

21世紀

1990年代を通じて陸軍のプロフェッショナル化のための改革が行われ、1996年では人員236,000名(含、徴収兵130,000~140,000名)であったものが1999年には人員186,000名(含、徴収兵70,000名)まで縮小され、129個の連隊のうち38個の連隊が1997年から1999年の間に廃止された。フランス大革命以来の伝統を有する徴兵制度も2001年に廃止された。これら20世紀末の大改革に伴い、軍団制、師団制の廃止と旅団制への移行が完了し、EUの中核国としての存在と立場をアピールしつつ、戦備の充実を図っていたが、2009年に第2後方支援旅団が、2010年に砲兵旅団および工兵旅団が、2015年に第1機械化歩兵旅団が、そして翌2016年に第3機械化歩兵旅団がそれぞれ解隊された。同年に行われた陸軍再編で、第7機甲旅団、第9海兵軽機甲旅団、第27山岳歩兵旅団およびフランス・ドイツ合同旅団をもって第1機甲師団に、第2機甲旅団、6軽機甲旅団および第11落下傘旅団をもって第3機甲師団にそれぞれ再編され、師団制が復活した。


  1. ^ 参謀本部の命令を無視して既成事実で中華民国との戦争を推進した旧日本陸軍関東軍の比ではなく、本事件の終結まで戦後フランス陸軍はアルジェが主、パリが従、となる異常な状態が続いた。


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