ビザンティン建築 歴史

ビザンティン建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 17:28 UTC 版)

歴史

初期ビザンティン建築

4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。

初期キリスト教建築

サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
典型的なバシリカ平面の教会堂内部。高窓のある身廊とそれより低い側廊からなる。

黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展し始め、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。

ローマ建築におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったため、宗教空間としては有効に機能したと推察されている[5]。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教ミトラ教も同様で、ロンドンクイーン・ヴィクトリア・ストリート英語版に存在するミトラ教寺院(2世紀ごろ)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。

初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカ[注釈 3]や、 450年ごろにコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院英語版のアギオス・ヨアンニス聖堂[注釈 4]、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナ550年ごろ建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂エルサレム聖墳墓聖堂などが挙げられる[注釈 5]。これらはすべてバシリカである[注釈 6]。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている[6]

サン・ヴィターレ聖堂
聖ウィタリスの記礼拝堂。八角形の集中式平面を持った教会堂のひとつ。
シリアカラート・セマーン建築群
十字型の複合建築物で中央八角形の中庭に登塔者聖シメオンの柱があった。

初期キリスト教建築として特筆すべきもうひとつの重要な建築は、聖地殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年ごろに建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年ごろに起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、さまざまな形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々にさまざまな用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。

このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスハリカルナッソス(現・ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。

アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリアエジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される[7]

ユスティニアヌス帝時代の建設事業

ハギア・ソフィア大聖堂
ドームを頂く集中式平面と側廊を持つバシリカ平面の融合プランを持つ。キリスト教礼拝空間の転換点となったことでも重要な建築物。
ハギア・エイレーネー聖堂
円蓋式バシリカ平面の教会堂。ユスティニアヌス帝時代に形成された形態のひとつ。

553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂[注釈 7]、アギオス・ポリエウクトス聖堂[注釈 8]といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解と呼べるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、のちにビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。

複雑な組積構造のため、独立柱と水平梁が衰退した。
東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末にまったく消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式イオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。
バシリカとドームを融合するプランが形成された。
ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂[注釈 9]がある。

ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている[8]。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現・ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現・ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現・ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。

システルナ・バシリカ
観光名所となっている地下貯水槽。天井を支える柱は長さも様式もまちまちである。

東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。ひとつは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138メートル×65メートルにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工が持っていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もうひとつは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64メートル×56メートル貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15メートルにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15メートル近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。

ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。

暗黒時代

テッサロニキのハギア・ソフィア聖堂
6世紀から9世紀の過渡期の建築である円蓋式バシリカ。
アルメニア・ズヴァルトノッツ教会堂
外壁は円筒形であるがその内部に四葉型の内陣がある特殊な形式の教会堂。

600年前後に始まる暗黒時代は、東ローマ帝国の建築活動に完全な停滞をもたらした。東ローマ帝国の勢力範囲はその大部分がウマイヤ朝や他民族によって侵略を受け、腺ペストの流行と旱魃、地震被害による人口の減少により、都市生活は破壊された。これらの地域で今日まで残る初期ビザンティン建築はほとんどないが、小アジア一帯では、東ローマ帝国の領土と経済が復興した際に、廃墟となった聖堂の身廊および側廊が、近隣住民の墓地として利用された[9]

コンスタンティノポリスや、テッサロニキ、モネンヴァシアアテナイなど、イスラームの侵略をはねのけた地域もあったが、地方都市で都市生活を営むことができたかどうかは疑問であり、新たな教会堂の建設は行われなかったか、あるいは行われたとしても施工精度の悪いものであったと考えられる。この時期に建設された建物の詳しい年代や建設意図の大部分は資料が少なく、よく分かっていない。6世紀から9世紀に建設されたと確認できる教会堂は、テッサロニキのハギア・ソフィア聖堂のほか、現存するものではデレアジの教会堂(現在は廃墟)やミュラ(現・デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂など、わずかしか知られていないが、ハギア・エイレーネー聖堂に見られる円蓋式バシリカ、あるいはクロス・ドーム・バシリカが各地に建設された。この形式は、6世紀から9世紀にかけてのビザンティン建築の過渡期を特徴づけるものと考えられている。

暗黒時代のビザンティン建築は、イスラームに包囲されて疲弊した首都に、援軍として迎えられたアルメニア人グルジア人によって保持された。彼らは常に独自性を保ちながら東ローマ帝国の文化を取り入れ、帝国が暗時代に突入するまさにその時期に芸術の最盛期を迎えた。

アルメニアの教会建築は5世紀ごろにまでさかのぼり、初期にはトンネル・ヴォールトを用いたバシリカを採用した。しかし、6世紀末にはバシリカは造られなくなり、代わってドームを持つ集中形式が好まれるようになった。7世紀に東方キリスト教を主導するに至ったころには、三葉型と四葉型、八角堂型、円筒形の四葉型、内接十字型の4つの形式が発展する。これらはアルメニアにおいて発展した形跡がなく、メソポタミアから北シリアにいたる東方の形式を取り入れたものと考えられるが、これらの地域の教会建築がまったく残っていないため、どのような形でそれがアルメニア建築の中に取り入れられたのかは分かっていない。彼らもまた、7世紀後半にはイスラーム帝国の侵略の前に屈服し、その教会堂も大半が放棄され廃墟となったが、その建築のアイディアはビザンティン建築の本流に取り入れられた[10]

中期ビザンティン建築

アラブ人の侵略によって国土を大幅に縮小した東ローマ帝国は、9世紀前半になってようやく安定を取り戻し、失われた領土の回復を進めていく。文化の面でも古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動、すなわちマケドニア朝ルネサンスが興った。この帝国の建築活動が7世紀ごろまで変遷過程にあったこと、その後、内接十字型と呼ばれる独自の建築平面を獲得したことを考慮し、7世紀以降から9世紀にかけての東ローマ帝国の建築がビザンティン建築の始まりと考えることもできるとの指摘もある[11]

再生の時代の教会建築

パントクラトール修道院聖堂
コムネノス朝の修道院。3つの複合聖堂。
カレンデルハネ・ジャーミイ(キリスト・アカタレプトス修道院?)
オシオス・ルカス修道院の中央聖堂

マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世はローマ帝国再生を唱え、ユスティニアヌスに倣って建築活動を積極的に行い、ハギア・ソフィア大聖堂をはじめとする荒廃した教会堂を修復し、新たに教会と宮殿の一角を建設した。総主教フォティオスの下、帝国は栄光の再生を夢見たが、ユスティニアヌス帝の建設活動が主として巨大公共建築であったのに比べると、バシレイオス帝の建築活動ははるかに規模が小さく、私的建築活動と呼ぶべきものであった。宮廷の建築活動はすでにかなり縮小しており、その影響力も農業中心の地方域には波及せず、東ローマ帝国一の大都市であるコンスタンティノポリスに限定されたものであった。このような私的援助は宮廷に限らず貴族によって模倣され、ビザンティン建築はこの後、私的建築活動によって存続することになる。

976年から始まるバシレイオス2世の治世になると、国庫の収入は改善され、セルジューク朝侵入に至る1071年まで、ビザンティン建築は活動最盛期を迎えることになる。バシレイオス2世は厳格な軍人皇帝であったため、その偉業にもかかわらず、彼の銘による建築は現在まで発見されていない。皮肉にも、中期ビザンティン建築の革新は、彼の後継者たちの散財によってもたらされた。11世紀は建築の革新期で、1028年ロマノス3世アルギュロスによるパナギア・ペリブレプトス修道院、1034年ミカエル4世によって建設されたアギイ・コスマス・ケ・ダミノス聖堂、コンスタンティノス9世モノマコスによるマンガナのアギオス・ゲオルギウス聖堂[注釈 10]などの大規模で壮麗な教会堂が建設された。これらはどれも現存していないが、下部構造からの推定ではアルメニアの影響が認められ、当時建設された教会建築に大きな影響を与えたと考えられる[12]。その一例としては、ネア・モニ修道院、オシオス・ルカス修道院の中央聖堂に見られるスクィンチ式の教会堂建築がある。

セルジューク朝の侵攻と一次十字軍の派遣という東西文化の軋轢に悩まされるコムネノス王朝時代には、中期ビザンティンの建築活動は保守的になり、マケドニア朝の革新的な平面計画は棄てられ、すでに確立した内接十字型平面が好まれるようになった。キリスト・パンテポプテス修道院聖堂[注釈 11]は、皇帝アレクシオス1世コムネノスの母アンナ・ダラセーナによって1100年に創建されたが、建築形態は内接十字型のうち4円柱式と呼ばれる平面で、すでに暗黒時代に建設されていたもので、新しい要素はまったくない。1124年ごろに建設されたキリスト・パントクラトール修道院[注釈 12]の北聖堂である生神女エレウーサ聖堂も同様の平面である。また、コーラ修道院の中央聖堂とカレンデルハネ・ジャーミイのように、暗黒時代に流行したクロス・ドーム形式の教会堂も建設された。このような状況は、西方と東方から迫る圧力に対し、純粋に正教会のもの、東ローマ帝国のものと思われたものを選択する意図があったと考えられる[13]

中期ビザンツの教会堂は私的礼拝のために建設されたため、大規模なものは存在しない。仮に多くの市民を収容するような需要があったとしても、古代に繁栄した都市であれば、減少した人口を収容できる程度の教会堂はすでに存在することが多かった。何より、この時代の東ローマ帝国はハギア・ソフィアのような大規模建築物を建てられるような国家体制ではなく、建築的関心は修道院の教会堂建設に向けられていた。

修道院の建築活動

スルブ・ハツ聖堂
アルメニア特有の尖り屋根を持った四葉型の教会堂。
パナギア・ハルケオン聖堂
内接十字型教会堂。軒下の犬葉飾りなど、外部装飾に対する意識が見られる。

修道院の建設は中期ビザンティン建築の主たる特徴である。カルケドン公会議に司教の監督下に措かれた各修道院は、聖像破壊運動の迫害を忌避してその管理下から逃れ、10世紀頃までにはかなりの独自性を持つようになっていた[注釈 13]

スラブ人やブルガリア帝国から奪還されたバルカン半島では、961年に聖アナスタシウスがラヴラ修道院を建設したあと、ギリシャ正教最高の聖地となったアトス山修道院や、フォキスにあるオシオス・ルカス修道院ヒオス島ネア・モニ修道院など、多くの修道院が建設されている。修道院はさまざまな建築の複合体であり、中央教会堂(カトリコン)を残してその他の施設が消滅している場合もあるが、今日に至るまで残存しているものも多い。また、都市人口の減少による空地の拡大に伴って、都市に開設される修道院も認められるようになる。このような修道院は一部の裕福層からの寄進によって建設されたものも少なくなく、寄進者らに施設そのものを不動産して譲渡、売却することも行われた。

コンスタンティノポリスでは、貴族出身のコンスタンティノス・リプスによって建てられた修道院[注釈 14]北教会堂が挙げられる。907年に創建された教会堂はそれほど大きなものではないが、献堂式に皇帝も列席するほど壮麗な建築で、大量の彫刻装飾と大理石の象眼、釉薬タイルによって装飾されていた。コンスタンティノポリスのその他の修道院としては、ロマノス・レカペノス提督(皇帝ロマノス1世)のミュレレオン修道院中央聖堂[注釈 15]、イサキオス・コムネノスによるコーラ修道院中央聖堂[注釈 16]などが挙げられる。地方都市では、テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂、スクリプーのコイメシス聖堂などで、貴族の寄進による修道院建設を見ることができる。

貴族の寄進に頼るこれら中期ビザンティンの教会堂建築に大規模なものは存在しないが、その代わりに外部空間はかなり意識されるようになったようである。内部空間の重要性に変わりはなかったが、中央聖堂は修道院中庭に孤立して建設されたため、外部を装飾する意識が生まれたようである。オシオス・ルカス修道院の生神女聖堂では、外壁の煉瓦積みがクロワゾネと呼ばれる技法によって構成され、クーファ文字をモティーフとした浮き彫りによって装飾されており、同様のモティーフはテッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂など、バルカン半島でよく見られる。また、アクダマル島のスルブ・ハツ聖堂は外部を美しい浮き彫りで覆っている。

末期ビザンティン建築

12世紀末期になると、東ローマ帝国は政治的には小公国のゆるやかな連合体となり、これは1204年コンスタンティノポリス陥落以後、よりいっそう加速された。ニカイア帝国によって首都は奪還されるものの、軍事力・経済力などの面で、帝国は往年の繁栄からは程遠いまでに衰退しており、同時代の壮麗なイスラム教礼拝堂やカトリック教会堂を凌駕するような建築は建てられなかった。

亡命政権が各地に樹立されることによって、ビザンティン建築は必然的に多様化することになるが、特に、ロマネスクやゴシックの影響を受けた建築が認められる。ラテン帝国の建築活動は著しく低かったため、これらは金角湾に居留したヴェネツィアピサ、ガラタ地区のジェノヴァの人々による建築の影響を受けた可能性が指摘される。

分裂の時代と再統一後の建築活動

コーラ修道院の内ナルテクス
末期ビザンティン美術を代表するフレスコ画とモザイクが残る。
コンスタンティノス・リプス修道院
右側:北聖堂、左側:南聖堂
ミストラのハギイ・テオドリ修道院付属聖堂
スクィンチ式教会堂としては最後のビザンティン建築である。

ビザンツ諸公国のうち最も活動的であったニカイア帝国は、多くの建築を建立したが、そのほとんどは現在には残っておらず、確実なことはいえない。

ニカイア帝国と勢力を競ったエピロス専制侯国は、王室の活発な建築活動が認められ、洗練された建築物とは言えないものの、礼拝堂建築が数多く残る。アルタにはエピロス建築の傑作とされるパリゴリティサ聖堂があり、その近郊にはカト・パナギア聖堂(1231年)やブラケルネ修道院、トリカラにはポルタ・パナギア聖堂(1283年)がある。エピロス王室はシチリア島ホーエンシュタウフェン家ヴィルアルドゥアン家との婚姻関係があり、これらの建築には西欧風の特色が認められる。このため、エピロスの建築は革新的なものが多いが、ニカイア帝国との争いに破れ、消滅してしまったために、その建築が最末期のビザンティン建築に継承されることはなかった。

トレビゾンド帝国には、首都トレビゾンドに皇帝マヌエル1世によって建設されたハギア・ソフィア修道院のカトリコンが現存している。グルジア王国の影響を受けた平面構成が認められるが、グルジア王国とルーム・セルジューク朝に挟まれたこの帝国のその他の建築活動については、あまり研究されていない。

1261年のニカイア帝国によるコンスタンティノポリス奪回後、コンスタンティノポリスではビザンティン文化の最後の華が開花した。いわゆる「パレオロゴス朝ルネサンス」である。しかし、この時期に建設された教会堂は、中期ビザンティン建築の伝統を墨守したものであって、他の文化活動に見られるような初期ビザンティンの、ましてや古代ローマの伝統を復興させるようなものではなかった[15]。コンスタンティノポリスでの建築活動は1261年から1330年ごろまでのわずかな期に認められるのみで、以後は完全に停滞した。

ミカエル8世の皇妃テオドラの開設したコンスタンティノス・リプス修道院南聖堂は1280年代の建立と思われ、既存の北聖堂を拡張するように建設された円蓋式バシリカに近い聖堂である。1310年に着工されたパナギア・パンマカリストス修道院付属礼拝堂は4円柱式の教会堂で、外観はほとんど立方体に近く、バルカン半島で認められる模様積みなどは認められない。これらの聖堂は、ほとんどが単純な矩形面であり、外部のデザインを優先してドームを多くかつ高く設計しているため、内部空間には広がりがなく、井戸の底にいるかのような印象を受ける。そして、恐らくほかのよく残存している教会堂と同じく、内部は説話に基づく絵画で覆われていた。

1316年に起工したコーラ修道院は、政治家テオドロス・メトキテスによって既存の教会堂を改築したものである。建築的に見るべきものは何もないが、内部のフレスコ画は末期ビザンティン美術の傑作といわれている。コーラ修道院に代表されるパレオロゴス朝の壁画では、写実性の向上と、初歩的ではあるものの遠近法の発達が認められ、これが後に西欧のルネサンスに繋がるとされる由縁となっている。

パレオロゴス朝の皇子達が封じられたモレアス専制公領の首府が置かれ、ペロポネソス半島を実効支配したミストラ城塞都市は、現在では完全な廃墟であるが、末期ビザンティンの都市景観をもっともよく遺している。ミストラの宮廷は周囲のフランク諸公国との婚姻関係もあったため、宮殿建築には西欧風の要素が認められる。ミストラ宮殿は1250年ごろから1350年ごろ、1400年ごろ、1460年ごろの3期にわたって建設され、その構造体には尖頭アーチの窓、リブ・ヴォールトといったゴシック建築の要素が散見する。宮殿の内部装飾が残っていないため明確ではないが、全体としてはビザンティン建築の伝統ではなく、西欧の宮殿建築の影響の方がむしろ強い。

末期東ローマ帝国時代に建設された修道院としては、聖アタナシオスの創建したメテオラがある。もっとも古いイパパンティ修道院は1366年に建設され、1388年にはメテオラ最大となるメガロ・メテオロン(メタモルフォシス修道院)が建立された。東ローマ帝国滅亡(1453年)後も、14世紀から18世紀にかけて、さらに5つの修道院が建設されている。

末期ビザンティン建築の特徴

ポリフィロゲニトゥス宮殿
北側正面のポーティコ
ハギア・エカテリニ聖堂
ポーティコのある周歩廊

末期ビザンティン建築も建築的関心は修道院建築にあったが、そのほとんどは既存教会堂の増築・改築であった。この際、外部にナルテクス(廊下状の前室空間)か礼拝に供された通路状の建物が回され、ポーティコ(列柱のある玄関またはアーケード)つきの正面を形成することが多く、この形状はヴェネツィアからもたらされたのではないかとの指摘がある[16]

ポーティコ付ファサードは、教会堂以上に住居建築に採用され、コンスタンティノポリスのポリフィロゲニトゥス宮殿(現・テクフルサライ)にもこの形状が認められる。12世紀後期と考えられるこの宮殿は、3階建てでテオドシウス2世の城壁の間に建設され、中庭に面した北側と城壁に連続する南側にポーティコ付正面が認められる。

テッサロニキは、パレオロゴス朝初期に繁栄し始め、首都での停滞期の間も修道院に付随する建築活動が活発に行われた。そのため、末期のビザンティン建築を知るうえで重要な建築物がいくつか残っている。1315年創建されたハギイ・アポストリ教会堂、同時代かそれより早い時期に建てられたと思われるハギア・エカテリニ教会堂は、ともに典型的な四円柱式内接十字型の教会堂であるが、三面がドームを頂く吹き放しのポーティコ状廊下で囲われ(現在では吹き放しではなく、ガラス戸が嵌め込まれている)、その四隅にドームを架けている。教会建築における、このような周歩廊の機能ははっきりせず、首都では墓所に使われたようであるが、テッサロニキではそのような機能は認められない。

1262年に東ローマ帝国に移譲されたミストラには、ミストラ型と呼ばれる教会堂が建設されている。パナギア・オディギトリア聖堂(アフェンディコ聖堂)はブロントシオン修道院の中央聖堂として使われ、その後、ミストラに建設された教会の模範となった「ミストラ型」の最初のモデルで、1階は円蓋式バシリカ平面を持つが、2階は内接十字型平面を持つ特殊な形式である。13世紀にバシリカとして建設されたアギオス・ディミトリオス聖堂は、15世紀にミストラ型として改修された。


注釈

  1. ^ この時代の歴史については不明な部分が多いが、帝国の社会構造と文化が変容したことは疑いない。東ローマ帝国の政治・社会的状況については、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンティン帝国史』、J.M.ロバーツ『世界の歴史4ビザンティン帝国とイスラーム文明』p86-p92など。および東ローマ帝国の項を参照。
  2. ^ 11世紀にスクィンチ式の建築が構成されるなどの革新もあり、建築活動が停滞していたというわけではないが、この頃のビザンティン建築はおよそ400年に渡ってきわめてゆっくりと変化した[4]
  3. ^ 現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂。伝承によれば312年に建設されたが、内外部は徹底的に改編されている。バシリカであること以外、創建当時の面影はない。
  4. ^ 現在はイスラム寺院イムラホール・ジャーミイであるが、廃墟となっている。
  5. ^ 聖墳墓教会については現存しているものの、長い歴史の中で破壊と再建が繰り返され、バシリカの部分は失われてしまった。
  6. ^ 初期キリスト教建築のバシリカとしては、例えばローマでは次のものがある。サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(385年〜400年頃)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(432年-440年頃)、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂(4世紀)、サン・クレメンテ聖堂(4世紀)、サンタ・サビーナ聖堂(5世紀)。いずれも後に大規模な改装をされている。その他、小アジアからヨーロッパまで、かなりの数のバシリカが残存する。
  7. ^ オルミダス宮殿の付属礼拝堂として、テオドラの命により建設された。現在はイスラム寺院キュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ。旧アヤソフィアの意であり、ハギア・ソフィア大聖堂の先駆的建築物とされるが確証はない。
  8. ^ 現存しない。しかし、一辺が50m四方の正方形平面を持つ巨大建築物で、平面規模はハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する。11世紀には放棄されていたが、第4回十字軍によってさらに徹底的に略奪され、彫刻部材などはヴェネツィアにもたらされた。代表的なものとしてピラストリ・アクリタニと呼ばれる柱材がある。
  9. ^ 現アヤイリニ博物館。
  10. ^ 現存せず。コンスタンティノス9世によりハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する教会堂として建設された。平面規模は23m×33mと大聖堂よりも小さいが、多額の費用を投入したにもかかわらず皇帝の気にいらなかったため2度にわたって建設をやり直し、国庫に大打撃を与えた。
  11. ^ 現在はイスラム寺院エスキ・イマレト・ジャーミイ。
  12. ^ 現在はイスラム寺院ゼイレク・キリッセ・ジャーミイ。
  13. ^ 修道院による活動は暗黒時代に活性化し、その拠点はビテュニアにあった。C.マンゴーは、内接十字型教会堂が空間の分節を要しないことから、この形式の教会堂は修道院で成立したと推定する[14]
  14. ^ 現在はイスラ寺院ファナリ・イサ・ジャーミイ。
  15. ^ 現在はイスラム寺院ボドルム・ジャーミイ。
  16. ^ オスマン帝国の時代はイスラム寺院カーリエ・ジャーミイ。現在は美術館として一般公開されている。
  17. ^ ビザンティンの教会堂建築の主な平面形式としては、次のようなものがある。十字型:コンスタンティノポリス聖使徒聖堂の形式で、ラテン十字またはギリシア十字平面を持ち、中央部とそれぞれの腕の部分にドームを頂く。エフェソスのアギオス・ヨアンニス・オ・テオロゴス聖堂、クレタ島ゴルテュナのアギオス・ティトゥス聖堂、ヴェネツィアサン・マルコ大聖堂がある。三葉型(トラコンチ)あるいは四葉型(テトラコンチ):アトス山の修道院群の中央聖堂に見られる形式。ラヴラ修道院のほか、ヴァトペディ修道院、イヴィロン修道院の中央聖堂において採用され、現在でも正教圏では広く普及している。
  18. ^ 十字型の平面計画で、横に突き出した部分。袖廊、あるいは翼廊という。
  19. ^ 現在知られている限り、最初期の事例はミリアムリクにある教会堂で、5世紀後期のものである[18]
  20. ^ 大型の内接十字型聖堂でも、ドームの直径が4mを超えるのはまれである。
  21. ^ 有力市民の没落については、ローマ都市の活動の担い手である都市参議会員の現象に明確に現れているが、これは経済的疲弊というよりも古代世界の都市構造の転換にあるとされる[27]

出典

  1. ^ J・B・ウォード・パーキンズ『図説世界建築史ローマ建築』p225
  2. ^ 『図説西洋建築史』p49「古代最後の輝き」。
  3. ^ C・マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p5。ただし、著者自身は7世紀以後をビザンティン建築と区分する方が都合がよいとしつつも、ユスティニアヌス帝の時代を含めた4世紀以降をビザンティン建築として記述している。N・ペヴスナー『世界建築辞典』p358「ビザンティン建築」では、ユスティニアヌス帝の時代を初期キリスト教の絶頂期かつビザンティン建築の胎胚期とする。R・クライトハイマーはユスティニアヌス帝の時代である6世紀をビザンティン建築の始まりとする。Eary Christian and Byzantine Architecture, p204
  4. ^ 『図説世界建築史5ビザンティン建築』p135およびp181。
  5. ^ ジョン・ラウデン『岩波世界の美術初期キリスト教美術・ビザンティン美術』p34。
  6. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p41-p43。
  7. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p93。
  8. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p60。
  9. ^ 浅野和生『サンタクロースの島 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記』p209-p216。
  10. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p115。
  11. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p5
  12. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p137。
  13. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p147。マラズギルトの戦いでセルジューク朝に敗退したのが1071年。第1回十字軍が派遣され、十字軍国家が樹立されるのが1101年である。帝国の崩壊はアレクシオス1世コムネノスヨハネス2世コムネノスの帝国再編によって食い止められるが、1204年に破局を迎える。
  14. ^ 『図説世界建築史ビザンティン建築』p106。
  15. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p159-p160
  16. ^ C・マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p166。13世紀のヴェネツィアの邸宅に採用されていたものが、東方に伝達されたと推定している。
  17. ^ a b 長塚安司「円熟期を迎える首都と周辺」『世界美術大全集 西洋編6 ビザンティン美術』149-150頁。
  18. ^ R. Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, p. 245.
  19. ^ a b J. A. Hamilton, Byzantine Archtecture and Decoration, p. 55.
  20. ^ “キリスト教、東西分裂後初会談で和解 思惑・緊張交錯 ローマ法王とロシア正教”. 日本経済新聞. (2016-2-13) 
  21. ^ ハンス・ユルゲン・マルクス (1980). 中世期における東西の分裂. 
  22. ^ 篠野史郎 (1990). “初期キリスト教ローマ帝国の集中形式宗教建築における内部の造形理念”. 日本建築学会計画系論文報告集410巻: 125. 
  23. ^ 『増補新装カラー版西洋建築様式史』美術出版社、1995年3月25日、58頁。 
  24. ^ R. Krautheimer, Eary Christian and Byzantine Architecture, pp. 292-295.
  25. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 55 f.
  26. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 56 f.
  27. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』54頁。
  28. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』180-183頁。
  29. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』154-177頁。





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