ビザンティン建築 特徴

ビザンティン建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 17:28 UTC 版)

特徴

ハギア・エイレーネー聖堂

ビザンティン建築は、ユスティニアヌス1世の時代における宮廷の建設事業によって急速に開花した。この時代の建築事情は、プロコピオスの『建築について』(De aedificiis) や現存する建築物、ハギア・ソフィア大聖堂やハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、ハギア・エイレーネー聖堂などによって知られる。アーキトレーヴや柱頭に彫り込まれた植物装飾によって構造体からの独立性を強調するような、特徴的な細部のデザインもこの時代に確立されたものである。バシリカ型の教会堂では身廊と側廊を分離するために独立円柱が一定の役割を果たしていたが、ドームとバシリカのプランが融合されるに従って、構造体としての役割は角柱に代わり、オーダーはそこに付け足された装飾の一部としてしか機能しなくなった。ギリシア起原であるにもかかわらず、中期以降のビザンティン建築では、オーダーはほとんど消滅することになる。

ビザンティン建築の構成

ビザンティン建築には多様なプランが認められる[注釈 17]が、以下の形式はすべて教会堂に関してのものである。世俗建築がいかなる形式で、いかなる機能を有したものであったかは、初期の段階ではローマ建築とほとんど違いがないということ以外は分かっていない。これは、ビザンティンの俗建築がミストラ以外にはあまり残っていないことによる。ミストラの建築も多くはフランク人によって建設されたもので、これをビザンティンの世俗建築一般と見なすことは難しい。

バシリカ

すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築バシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある[17]。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれにあたる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプト[注釈 18]を構成するものもある。

ビザンティン建築のバシリカ式としてもっとも一般的なタイプは、身廊部分に トンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ[17]12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。

円蓋式バシリカおよびクロス・ドーム

ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀ごろである[注釈 19]

コンスタンティノポリスのハギア・エイレーネー聖堂内部
円蓋式バシリカの代表的な教会堂。ティンパヌム(ドーム下部の半円形の外壁)はドームを支える角柱の外側に取りつけられているが、側廊と身廊を分けるアーケードは角柱の内側に据えられている。このため、側廊と身廊を隔てるアーケードが空間の中で浮いている。

ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ (Domed Basilica) と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるもの)である[19]。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。

円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ (Cross-Domed Basilica) と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある[19]。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。

ビザンティン様式が発展した東ローマ帝国には、ローマン・カトリックとは異なり、現在のギリシア正教やロシア正教と呼ばれる東方教会が広まっていた。[20][21]東方教会は神の表現についてきわめて厳格であり、天国の断層序列は、イエスを最上位として、次にマリア、次いで大天使ミカエルとガブリエル、福音史家、使徒たち、旧約の預言者、聖者、初期キリスト教時代の教父の順に定められていた。[22]また、初期キリスト教のバシリカ式教会堂のアプス上の半ドームの象徴的意味がますます強く意識されることとなっていき、東方教会のドーム構造が重要な要素となっていった。[23]

円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現・デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀ごろか?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年ごろに創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリバイバルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム (Cross-Domed Church) とも呼ばれる[24]

内接十字型

オシオス・ルカス修道院付属生神女聖堂内部
ドームを直下の4本の円柱によって支える四円柱式内接十字型の教会堂。ドームが教会堂に対して小さい。
パレルモのマルトラーナ内部
四円柱式内接十字型の教会堂。

内接十字型教会堂(Cross-Inscribed または Cross-in-square、あるいは Quincunx)は、それまで標準的であったバシリカを駆逐し、中期ビザンティン時代に標準形式となった教会堂形式である。一般に、「ギリシア十字型の教会堂」を指す場合や、ビザンティン様式、ビザンツ様式として紹介される教会堂は、このタイプを指すことが多い。正方形平面の中にギリシア十字型の身廊・袖廊を内包しており、中央部にペンデンティヴを備えたドームを支持する円柱またはピア(主柱)がある。円柱2本と内壁によってドームを支えるものは二円柱式教会堂 (Two-Column Church)、ドームの荷重を4本の円柱で保持するものは四円柱式教会堂 (Four-Column Church) と呼ばれるが[25]、後者の方が一般的な形式である。四円柱式教会堂には、さらに身廊とアプスの間にベイが差し込まれる形式と、追加ベイがないものに分けられる。おおむね二円柱式はベルカン半島南部に、四円柱式で追加ベイのないものはセルビアからイタリア半島南部に限られ、追加ベイのある二円柱式はビザンティン文化圏の広い範囲に渡って認められる[26]

内接十字型教会堂の起源は明確ではないが、ビザンティン建築においてこの形式が導入されたのは8世紀末から9世紀ごろである。経済が復興した9世紀後半以降、多くの教会堂が内接十字型で建設されている。コンスタンティノポリスでは、バシレイオス1世が880年に献堂したネア聖堂が、文献の記述から、おそらくこの形式で造られたと推定されている。現在にも残る修道院の聖堂としては、二円柱式教会堂として、 マニにあるアギオス・ストラテゴス聖堂、ミストラのペリブレプトス修道院付属聖堂などがある。四円柱式教会堂は数多く残っているが、おもなものを挙げると、10世紀中期に建設されたオシオス・ルカス修道院の生神女聖堂のほか、1028年に建設されたパナギア・ハルケオン聖堂、1100年建設されたキリスト・パンテポプテス修道院中央聖堂(現・エスキ・イマレト・ジャーミイ)、12世紀初期に建設されたパントクラトール修道院の南北両聖堂(現・ゼイレク・キリッセ・ジャーミイ)がある。また、ビザンティン建築ではないが、サン・ピエトロ大聖堂についても、ドナト・ブラマンテによる最初の計画は、内接十字型といって良い平面の教会堂であった。

内接十字型は、東ローマ帝国の職人たちが円柱の上に3.5メートル以上の幅のアーチを架けることを忌避したため、その構造から小規模の教会堂にしか適用できず[注釈 20]、内部空間がほとんど単一となる。バシリカのように空間を身廊・側廊に分けることができないため、必然的に集中性の高い性格の建築物となっている。しかしミストラでは、ミストラ型教会堂と呼ばれるバシリカと内接十字型の混成形式の教会堂が存在する。この形式の教会堂は、1階部分に円柱を並べて身廊と側廊を区分しており、1階部分の平面のみを見るとバシリカになっている。しかし、2階になると角柱を設けて内接十字型の平面を構成しており、内部の印象はハギア・エイレーネー聖堂に近いものとなっている。

スクィンチ式

ヒオス島のネア・モニ修道院中央聖堂
スクィンチ式聖堂の例。西側にナルテクス、東側にアプスのある単純型の形式。

スクィンチ式教会堂 (Church on Squinches) は中期ビザンティン時代に形成されたもので、平面形態ではないが、内接十字型と並び、ビザンティン建築の主要な形式のひとつである。正方形平面の四隅に設けたスクィンチ(多角形の構造を正方形平面の上部に乗せるために斜めに置かれたアーチ)が形成する八角形平面の上に鼓胴壁付きのドームを架けたものを主屋とする教会堂形式である。内接十字型では、ドームの直径は最大でも4メートル程度のものしか造れないと考えられていたようであるが、スクィンチ式教会堂のドームは、これよりも大きい直径8メートル程度のドームを架けることができる。

東にアプス、西にナルテクスを構成する単純型と、南北に付属室のある複合型がある。前者の形式として、1042年に建設されたネア・モニ修道院中央聖堂、1090年に建設されたキプロスのクリソストモス修道院中央聖堂がある。後者の代表的な例としては、11世紀初期に建設されたと推定されるオシオス・ルカス修道院中央聖堂、11世紀末と考えられるアテネ近郊のダフニ修道院中央聖堂、ミストラのアギイ・テオドリ聖堂がある。

東ローマ帝国の都市

東ローマ帝国の多くの都市は、ローマ帝国の時代から継承されたものである。ローマ帝国の混乱によって、3世紀後半から4世紀にかけてローマ時代の都市は広範囲に衰退したが、5世紀から6世紀になると東ローマ帝国の勢力範囲内では経済が再生し、これに伴って建築活動も盛んになった。交易の活性化は、南イタリアからバルカン半島沿岸部、コンスタンティノポリスからアナトリア半島沿岸部、シリア一帯で見られるが、東ローマ帝国とサーサーン朝の衝突や異民族の侵入などによって安定せず、大局的には地方都市は徐々に衰退していったといってよい。このような地方経済の低下は、地方都市の公共業務の担い手であった裕福市民層の減衰を招いた。中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物は東ローマ帝国時代には建設されなくなった。

都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下した。劇場は競技場よりは活用されたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会からたびたび禁止令が出され、やがて放棄されていった。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年テオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発したあと、廃棄されるか破壊された。

このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなったが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小した。異教の神殿は6世紀ごろにキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となった。

テオドシウスの城壁
コンスタンティノポリスを防衛していた大市壁。
ミストラ全景
右手山頂にあるのが宮殿。距離300メートル内で240メートルもの高低差のある急傾斜地に市街地が形成されている。

このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ない。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、東ローマ帝国時代の都市は、古代ローマ時代の都市よりもずっと小規模である。ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビア(現・ハラビエ)といった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点であった。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されている。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に避難する生活であった。

東ローマ帝国は6世紀に衰退を始め、都市部の経済活動も完全に停滞した。サーサーン朝ペルシャとの戦乱に巻き込まれたシリアからアナトリア半島の都市は壊滅状態のまま国家統制から排除され、イスラム帝国が勃興してからはシリア、エジプトの海上拠点も制圧された。バルカン半島は北方からの侵入したブルガリア人マジャール人に悩まされただけでなく、沿岸地域からはイスラム帝国に攻撃された。貿易は完全に停止し、地中海貿易によって成り立っていた古代都市は、略奪され、あるいは経済的停滞によって完全に衰退・放棄された。特に北方から来襲したスラブ人の勢力下に置かれたバルカン半島の都市は10世紀まで荒廃した状態にあり、住居は粗悪なものであったため、建物の平面ですら確認するのが困難である。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化した。

このような東ローマ帝国の中世都市の雰囲気をよく残しているのが、ペロポネソス半島のモネンヴァシアや、ギョーム2世ヴィルアルドゥアンによって建設されたミストラである。ミストラは完全に中世のものではなく、また、ノルマン人によって建設されたものではあるが、末期東ローマ帝国の都市を知るうえで重要な手掛かりとなる。町は高低差240メートルの急斜面にあり、はっきりした街路計画も中心部もない。貴族も庶民もつましい生活を送っていたらしく、住居は大きな居間が1つで、独立した部屋はなく、食事や睡眠、排泄もそこで行われていた。

修道院での慈善施設

ローマ帝国では、公共業務は都市の有力市民層によって運営されていたが、都市の衰退とともに有力市民層も没落すると、それは教会によって維持されることになった[注釈 21]。キリスト教組織は、すでに国教化以前から積極的に慈善活動を行っていたが、4世紀から5世紀になると、各地域の主教が慈善施設の設立について重要な役割を果たすようになり、病院や救貧院といった施設を創設し、これを管理するようになった。これを受けて、451年カルケドン公会議では、主教が慈善施設の運営に責任を持つことが成文化され、さらに544年にユスティニアヌス帝の発令した教会機関に対する法令において、主教は教会内部に宿泊施設、救済施設、病院、孤児院、養老院といった施設を設け、これらを維持するように計らう責任があることが明確に示された。さらに、慈善施設は、設置する基準としてその運営能力を証明する必要性があったが、活動は慈善目的に限られており、これを逸脱するような場合、主教は運営に介入する権限を有することも記載されている[28]

しかし、このような制度は形骸化し、11世紀には私的な慈善施設に対する主教の権限は剥奪された。どの時点から主教の権限の低下が始まったのかは資料が少ないため不明瞭であるが、少なくとも9世紀には制度の変節が認められ、中世東ローマ帝国時代になると、裕福層の寄進によって設立された修道院の慈善施設は国家や教会権力から独立した事業として認識されている。皇帝が私的に設立した修道院ですら、皇帝自身の私有財産と見なされ、必要な収入が確保できるように資産管理が行われていた。皇帝ロマノス1世レカペノスの設立したミュレレオン修道院(病院施設が付随)やヨハネス2世コムネノスの設立したパントクラトール修道院(病院施設・養老院・浴場が付随)がその代表的な例である。

パントクラトール修道院は1118年から1124年にかけてヨハネス2世コムネノスによって建設された南側のパントクラトール聖堂と、1136年以前にコムネノス家の墓所として建設された中央部のアギオス・ミハイル聖堂、そして北側のエウレーサ聖堂の3つの聖堂からなるが、これに今日では残っていないコンスタンティノポリスの病人を収容する病院(パントクラトール・クセノン)と養老施設(ゲロコミオン)が付属した複合建築物であった。パントクラトール・クセノンは規模が大きく、またその運営を記した『規律書(ティピコン)』や当時の歴史家ニケタス・コニアテスの著作によってその実態を推測することができる。パントクラトールの病院は、外科的治療、眼・腸などの疾患治療、女性患者の治療、その他の5部門に分かれ、専門の医師、助手、補助員、女性スタッフらが常駐する。入院患者のために合計で50床のベッドが用意され、院内には暖房用の暖炉が男性用に2つ、女性用に1つ設けられる。トイレは男性用、女性用がそれぞれ1か所あり、夜間でも明かりが灯されていた。治療には入浴が重要視されていたため、浴室も設置されていた。主聖堂とは別に、患者のために男性用と女性用の教会堂がそれぞれ設立されていた。おもに貧困層を対象(とはいえ、極貧の者は対象ではなく、必ずしもすべての患者が貧困層というわけでもなかったが)にした医療機関であるが、かなりの運営費用が割り当てられており、また今日の病院に匹敵するほどの高度な組織的運営が行われていたとする研究もある[29]

モルタルと煉瓦

ビザンティン建築の建築方法は、基本的にはローマ建築のものと大差ない。各地の建築工房において、粗石造と煉瓦造を交互に使用する工法が確立されていたため、時代の推移にかかわらずビザンティン建築の施工は常に安定していたようである。大まかに、シリア、パレスティナ、アルメニアやジョージアなどの切り石構造と、その他の地域の煉瓦・粗石構造とに分けられる。

ビザンティン建築においてもっともポピュラーなのは後者で、長方形の石材を片枠として積み上げ、その内部にモルタルと粗石を流し込み、次いで煉瓦を5段程度積層し、さらに石材を積み上げモルタルを流し込むことを繰り返すことによって外壁を形成した。ほとんどの場合、外壁には漆喰やモルタルが塗られなかったため、この石材と煉瓦の交互の配列は水平方向の縞模様となって、ビザンティン建築の外部の色彩的な特徴となっている。この建築方法は、初期の時代から11世紀ごろに至るまでまったく変化しておらず、建築工法による建築物の時代特定を困難なものにしている。

古代ローマで用いられたローマン・コンクリートは、ポッツォラーナによって均質な凝固性を示すが、ビザンティンで用いられるモルタルは焼石灰とによるもので、ローマン・コンクリートほどの耐久性を示していない。また、石灰によるモルタルは硬化したあとに風雨にさらされると分解するため、構造体は石材などの外装を付与する必要性があった。さらに、壁の仕上げと一体化した煉瓦のモルタル目地は、建築コストを下げるために徐々に多量に用いられる傾向にあり、モルタル硬化時の乾燥収縮によって建築物の精度は低下した。

ハギア・ソフィア大聖堂のような大規模建築物にとっては、このような建物の歪みは致命的欠陥であり、事実、最初に架けられたドームは建築途中においてもすでに湾曲し、その結果、わずか20年で崩壊した。再建には、大聖堂そのものの建設と同程度の時間を要している。崩壊の原因はドームを支える支柱の傾斜が原因であったが、この垂直傾斜は今日でもそのまま遺っている(この強度不足は、バットレスを補強することによって解決されている)。

建築の装飾


注釈

  1. ^ この時代の歴史については不明な部分が多いが、帝国の社会構造と文化が変容したことは疑いない。東ローマ帝国の政治・社会的状況については、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンティン帝国史』、J.M.ロバーツ『世界の歴史4ビザンティン帝国とイスラーム文明』p86-p92など。および東ローマ帝国の項を参照。
  2. ^ 11世紀にスクィンチ式の建築が構成されるなどの革新もあり、建築活動が停滞していたというわけではないが、この頃のビザンティン建築はおよそ400年に渡ってきわめてゆっくりと変化した[4]
  3. ^ 現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂。伝承によれば312年に建設されたが、内外部は徹底的に改編されている。バシリカであること以外、創建当時の面影はない。
  4. ^ 現在はイスラム寺院イムラホール・ジャーミイであるが、廃墟となっている。
  5. ^ 聖墳墓教会については現存しているものの、長い歴史の中で破壊と再建が繰り返され、バシリカの部分は失われてしまった。
  6. ^ 初期キリスト教建築のバシリカとしては、例えばローマでは次のものがある。サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(385年〜400年頃)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(432年-440年頃)、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂(4世紀)、サン・クレメンテ聖堂(4世紀)、サンタ・サビーナ聖堂(5世紀)。いずれも後に大規模な改装をされている。その他、小アジアからヨーロッパまで、かなりの数のバシリカが残存する。
  7. ^ オルミダス宮殿の付属礼拝堂として、テオドラの命により建設された。現在はイスラム寺院キュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ。旧アヤソフィアの意であり、ハギア・ソフィア大聖堂の先駆的建築物とされるが確証はない。
  8. ^ 現存しない。しかし、一辺が50m四方の正方形平面を持つ巨大建築物で、平面規模はハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する。11世紀には放棄されていたが、第4回十字軍によってさらに徹底的に略奪され、彫刻部材などはヴェネツィアにもたらされた。代表的なものとしてピラストリ・アクリタニと呼ばれる柱材がある。
  9. ^ 現アヤイリニ博物館。
  10. ^ 現存せず。コンスタンティノス9世によりハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する教会堂として建設された。平面規模は23m×33mと大聖堂よりも小さいが、多額の費用を投入したにもかかわらず皇帝の気にいらなかったため2度にわたって建設をやり直し、国庫に大打撃を与えた。
  11. ^ 現在はイスラム寺院エスキ・イマレト・ジャーミイ。
  12. ^ 現在はイスラム寺院ゼイレク・キリッセ・ジャーミイ。
  13. ^ 修道院による活動は暗黒時代に活性化し、その拠点はビテュニアにあった。C.マンゴーは、内接十字型教会堂が空間の分節を要しないことから、この形式の教会堂は修道院で成立したと推定する[14]
  14. ^ 現在はイスラ寺院ファナリ・イサ・ジャーミイ。
  15. ^ 現在はイスラム寺院ボドルム・ジャーミイ。
  16. ^ オスマン帝国の時代はイスラム寺院カーリエ・ジャーミイ。現在は美術館として一般公開されている。
  17. ^ ビザンティンの教会堂建築の主な平面形式としては、次のようなものがある。十字型:コンスタンティノポリス聖使徒聖堂の形式で、ラテン十字またはギリシア十字平面を持ち、中央部とそれぞれの腕の部分にドームを頂く。エフェソスのアギオス・ヨアンニス・オ・テオロゴス聖堂、クレタ島ゴルテュナのアギオス・ティトゥス聖堂、ヴェネツィアサン・マルコ大聖堂がある。三葉型(トラコンチ)あるいは四葉型(テトラコンチ):アトス山の修道院群の中央聖堂に見られる形式。ラヴラ修道院のほか、ヴァトペディ修道院、イヴィロン修道院の中央聖堂において採用され、現在でも正教圏では広く普及している。
  18. ^ 十字型の平面計画で、横に突き出した部分。袖廊、あるいは翼廊という。
  19. ^ 現在知られている限り、最初期の事例はミリアムリクにある教会堂で、5世紀後期のものである[18]
  20. ^ 大型の内接十字型聖堂でも、ドームの直径が4mを超えるのはまれである。
  21. ^ 有力市民の没落については、ローマ都市の活動の担い手である都市参議会員の現象に明確に現れているが、これは経済的疲弊というよりも古代世界の都市構造の転換にあるとされる[27]

出典

  1. ^ J・B・ウォード・パーキンズ『図説世界建築史ローマ建築』p225
  2. ^ 『図説西洋建築史』p49「古代最後の輝き」。
  3. ^ C・マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p5。ただし、著者自身は7世紀以後をビザンティン建築と区分する方が都合がよいとしつつも、ユスティニアヌス帝の時代を含めた4世紀以降をビザンティン建築として記述している。N・ペヴスナー『世界建築辞典』p358「ビザンティン建築」では、ユスティニアヌス帝の時代を初期キリスト教の絶頂期かつビザンティン建築の胎胚期とする。R・クライトハイマーはユスティニアヌス帝の時代である6世紀をビザンティン建築の始まりとする。Eary Christian and Byzantine Architecture, p204
  4. ^ 『図説世界建築史5ビザンティン建築』p135およびp181。
  5. ^ ジョン・ラウデン『岩波世界の美術初期キリスト教美術・ビザンティン美術』p34。
  6. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p41-p43。
  7. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p93。
  8. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p60。
  9. ^ 浅野和生『サンタクロースの島 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記』p209-p216。
  10. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p115。
  11. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p5
  12. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p137。
  13. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p147。マラズギルトの戦いでセルジューク朝に敗退したのが1071年。第1回十字軍が派遣され、十字軍国家が樹立されるのが1101年である。帝国の崩壊はアレクシオス1世コムネノスヨハネス2世コムネノスの帝国再編によって食い止められるが、1204年に破局を迎える。
  14. ^ 『図説世界建築史ビザンティン建築』p106。
  15. ^ C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p159-p160
  16. ^ C・マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p166。13世紀のヴェネツィアの邸宅に採用されていたものが、東方に伝達されたと推定している。
  17. ^ a b 長塚安司「円熟期を迎える首都と周辺」『世界美術大全集 西洋編6 ビザンティン美術』149-150頁。
  18. ^ R. Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, p. 245.
  19. ^ a b J. A. Hamilton, Byzantine Archtecture and Decoration, p. 55.
  20. ^ “キリスト教、東西分裂後初会談で和解 思惑・緊張交錯 ローマ法王とロシア正教”. 日本経済新聞. (2016-2-13) 
  21. ^ ハンス・ユルゲン・マルクス (1980). 中世期における東西の分裂. 
  22. ^ 篠野史郎 (1990). “初期キリスト教ローマ帝国の集中形式宗教建築における内部の造形理念”. 日本建築学会計画系論文報告集410巻: 125. 
  23. ^ 『増補新装カラー版西洋建築様式史』美術出版社、1995年3月25日、58頁。 
  24. ^ R. Krautheimer, Eary Christian and Byzantine Architecture, pp. 292-295.
  25. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 55 f.
  26. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 56 f.
  27. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』54頁。
  28. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』180-183頁。
  29. ^ 大月康弘『帝国と慈善ビザンツ』154-177頁。





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