カール・ゴッチ
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来歴
1924年8月3日、ベルギーのアントワープでドイツ国籍のもと、父エドワードと母ヨハナの元に生まれる。幼少期にドイツのハンブルクに移り住む。
青少年時代からグレコローマンレスリングを習い、アマチュアスポーツの選手として活動。後に愛弟子となる前田日明の情報では、第二次世界大戦終戦後は捕虜収容所に入れられ、そこで知り合ったソ連のロシア人からサンボ(ロシアンサンボ、もしくはソ連式フリースタイルレスリング)の手ほどきを受けている[4]。
釈放後アマレス界に復帰し、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得[5]。ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場[† 3]。
アメリカでの活躍
1950年、"Karel Istaz" のリングネームでプロレスラーとしてデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝[要出典]。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスのビリー・ライレージムでビリー・ジョイスからランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の指導を受ける。
1959年にカナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年にアメリカへ進出、プロフィール上はドイツ出身となり、リングネームとしてカール・クラウザー(Karl Krauser)を名乗る。オハイオ州のMWA(Midwest Wrestling Association)へ参戦すると、1961年にNWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を獲得。AWAにも参戦し、バーン・ガニアと組んでジン・キニスキー&ハードボイルド・ハガティが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦した[6]。
同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める[† 4]。1962年8月31日オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、オハイオ版AWA(American Wrestling Alliance)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。
1967年、カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAに参戦。同年6月30日、"アイアン" マイク・デビアスをパートナーにWWA世界タッグ王座を獲得[7]。同年6月30日、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている[要出典]。1968年にアメリカ市民権を取得。1971年よりWWWF(後のWWE)へ参戦すると、12月6日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいてレネ・グレイをパートナーにWWWF世界タッグ王座を獲得[8]。しかし、テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもシングルの主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を付けられた。
日本での活躍
1961年4月、日本プロレスの第3回ワールドリーグにカール・クラウザーのリングネームで初来日。東京都体育館で吉村道明と45分3本勝負で対戦し、1本目にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開し、吉村からピンフォールを奪った(試合は1-1で時間切れ引き分け)。
第3回ワールドリーグ終了後の国際試合シリーズにも引き続き参戦し、1961年5月26日に福井市体育館で力道山とシングルマッチ(60分3本勝負)で対戦し、1-1で引き分ける[9][10]。この福井での試合が力道山とゴッチの唯一のシングルマッチとなった。来日中はビル・ミラー(覆面レスラーのミスターXとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオに制裁を加えたとされている[11]。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級選手権に挑戦が決まっていたが、怪我で断念した為、馬場とのタイトル戦は実現しなかった。
1968年1月に日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックの高さから「プロレスの神様」とも称されるという。
その後はハワイで清掃関係の企業を経営していた[10]が、1971年3月、国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。
1972年1月の新日本プロレス設立に選手兼ブッカーとして助力。同年3月から1974年8月にかけて、弟子ともいえる[12]アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗の戦績を残した。1973年10月にルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。ブッカーとしては、アメリカからはドランゴ兄弟(ジム・ドランゴ&ジョン・ドランゴ)、リップ・タイラー、エディ・サリバン、レッド・ピンパネールなどをノーTV時代の新日本へブッキングしたが、そのほとんどが無名レスラーだった[13]。
引退後
居住していたフロリダ州タンパにおいて、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明などのプロレスラーを数多く育成した。1982年1月1日、後楽園ホールにおいて藤原とエキシビション・マッチで対戦[14]。同年1月8日、同じく後楽園ホールにおける木戸とのエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である[14]。
晩年
2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年はタンパの自宅に西村が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を行っていた。2人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。前田日明はその話を聞き、後輩である西村に恩義を感じている。
2007年7月28日21時45分、フロリダ州タンパ市にて82歳で死去。同年7月30日発行の『東京スポーツ』紙の記事では「大動脈瘤破裂」が死因だったとしている。
注釈
- ^ 東京都荒川区の豊国山回向院に墓碑があり、本名はカール・イスターツと刻まれている(G SPIRITS Vol.46)
- ^ 『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチはベルギーで生まれ、16歳の時に仕事を求めてブリュッセルからドイツへ移り住んだと述べている。また、『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)2007年8月15日号に掲載された斎藤文彦による追悼寄稿において、ゴッチ自身は「ベルギーのアントワープ生まれ」と話していたことが記されている。
- ^ World Olympians Associationに1924年8月3日生まれのベルギー代表選手として"Karel Istaz"の名が記載されている。Olympic Games MuseumのOfficial Reportでは、"Istaz, K."はグレコローマンおよびフリースタイルレスリングのライトヘビー級に出場している。また、「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチも同大会への出場を認めている。
- ^ この改名はMWAのプロモーターであったアル・ハフトの意向によるものと言われている(ハフトはかつてヤング・ゴッチというリングネームのプロレスラーであった)。また、試合をする地方によって、「クラウザー」と「ゴッチ」を使い分けていた時期もある。
- ^ "Wrestlingdate.com"のレコードによれば、日本プロレスに来日する以前に既に「カール・クラウザー」や「カロル・クラウザー」を名乗っている。また1953年にドイツで既に「カール・ゴッチ」を名乗っている。(Wrestlingdata.com)
- ^ ロジャースは、巡業先に中傷ビラが撒かれる事件があったり、防衛戦を行う地域が偏っているなどの不満を持たれていた。また、ルー・テーズ、フレッド・ブラッシーも自伝においてロジャースの性格を批判している。
- ^ An Exclusive Interview with Rene Gouletにおいて、レネ・グレイがゴッチとタッグを組んだいきさつを語っている。
- ^ A Letter From Karlにゴッチ自筆の手紙が掲載されている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j “Karl Gotch”. Wrestlingdata.com. 2023年11月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Karl Gotch”. Cagematch.net. 2023年11月21日閲覧。
- ^ a b c “SPECIALIST: List of Deceased Wrestlers for 2007 with Details (Updated as needed)”. Pro Wrestling News & Analysis. 2023年11月21日閲覧。
- ^ “前田日明と獣神サンダー・ライガー!待望の対談が実現!”. 前田日明チャンネル (2021年4月30日). 2023年1月25日閲覧。
- ^ Scientific Wrestling参照。
- ^ “The AWA matches fought by Karl Gotch in 1961”. Wrestlingdata.com. 2022年5月30日閲覧。
- ^ a b “WWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ a b “WWWF/WWF/WWE World Tag Team Title”. Wrestling-titles.com. 2022年4月7日閲覧。
- ^ 『プロレスPLAYBACK』東京スポーツ 2017年5月23日(22日発行)付6面
- ^ a b c 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p20-21
- ^ 『Gスピリッツ Vol.30』P59-60(2014年、辰巳出版、ISBN 4777812669)
- ^ “【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.63』P20(2022年、辰巳出版、ISBN 4777828964)
- ^ a b “Matches: Karl Gotch 1971-1982”. Cagematch.net. 2023年11月21日閲覧。
- ^ 【国際プロレス伝】失意のカール・ゴッチは「国際のリング」で蘇った
- ^ 新日本プロレスオフィシャルWEBサイトの選手名鑑参照。
- ^ Olympic Games Museumの同大会Official Reportに"Istaz"の名は記載されていない。
- ^ 別冊宝島120『プロレスに捧げるバラード』(1990年 宝島社)p.190-191. ISBN 4796691200
- ^ rewens2659 (2017年2月14日). “ルー・テーズVSカール・ゴッチの対戦成績”. Yahoo! JAPAN. 2017年8月14日閲覧。
- ^ “NWA Eastern States Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “AWA World Heavyweight Title [Indiana / Ohio]”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “IWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Karl Gotch in 1972”. Wrestlingdata.com. 2022年4月7日閲覧。
- ^ 平直行『平直行の格闘技のおもちゃ箱』(2006年、福昌堂)pp.109-111. ISBN 4892247979
- ^ “アントニオ猪木ら出席、カール・ゴッチさん納骨式”. 日刊スポーツ. 2023年11月21日閲覧。
固有名詞の分類
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