T-43での研究
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「Su-9 (航空機)」の記事における「T-43での研究」の解説
設計局名称T-43(Т-43)と呼ばれた大型デルタ翼機は、1958年前半期に量産化に向けた開発機であったPT-8をベースに製作された。T-43シリーズはT-3シリーズのひとつに数えられている。T-43はまずT-43-1からT-43-6まで6つの機体が製作され、それらにはAL-7Fの改良型で当時ソ連最大の出力をもっていたAL-7F-1(АЛ-7Ф-1)1基が搭載された。 T-43 の開発当時ソ連にあったレーダー・ステーションは、従来のMiG-17PF/PFUやMiG-19P/PM迎撃戦闘機に搭載されていた「イズムルート」(Изумруд:「エメラルド」の意味)またはRP-1(РП-1)、RP-2(РП-2)および改良型のRP-5(РП-5)と呼ばれる小型で電波発信部と受信部が分離されている形態のもの、Yak-25迎撃戦闘機に搭載されていた「ソーコル」(Сокол:「鷹」の意味)またはRP-6(РП-6)と呼ばれる大型のもののわずか2系統のみであった。いずれのステーションも、新しい迎撃戦闘機への採用には不適であった。イズムルートは小型かつ形状が特異で発展性に乏しく、逆にソーコルはあまりに大きすぎてT-43への搭載は困難であった。当時ソ連でレーダー開発を行っていた唯一の機関であった第17モスクワ科学試験研究所(NII-17)では、新しいレーダー・ステーションである「ウラガーン」(Ураган:「突風」の意味)と「パンテーラ」(Пантера:「豹」の意味)の開発を進めていたが、それらの計画は遅々として進まなかった。そこにきて、軍事産業省の第1設計局で新たなレーダー・ステーションの開発が行われていることが明らかになった。有翼の空対地ミサイルのシステムに関する研究の中心であったこの設計局では、主任のA・A・コーロソフ(А.А. Колосов)を中心に、十分にコンパクトなレーダー・ステーションTsD-30(ЦД-30)が完成された。TsD-30には、ピョートル・ドミートリエヴィチ・グルーシン(Петр Дмитриевич Грушин)の率いる航空産業省(MAP)第2設計局(グルーシン設計局)で開発された空対空誘導ミサイルシステムK-5(К-5)の運用能力が確保されていた。また、TsD-30は「ヴォーズドゥフ1」(Воздух-1:воздухは「空気」の意味)自動誘導装置を搭載し、この装置は低高度目標への攻撃能力を大幅に高める役割を担った。発信部と受信部を統合するシステムが開発され、このレーダー・ステーションの寸法はT-43の可動式ノーズコーンに無理なく収納できるものとなった。この派生型のおかげで、1957年までにソ連で制式武装に採用された空対空誘導ミサイルは唯一K-5だけであると言われた。その後、改良型のK-5M(К-5М)や1957年10月にMiG-19PMにおける検査試験を成功裏に完了したK-5MS((К-5МС)がTsD-30の主要運用兵装とされた。のちに、K-5はRS-1U(РС-1У)、K-5Mは RS-2U(РС-2У)、K-5MSはRS-2US(РС-2УС)にそれぞれ改称された。 T-43シリーズではレーダーシステムの試験のほか機体の飛行特性の試験も行われた。その過程で、T-43-1のノーズコーンにはESUV-1(ЭСУВ-1)電気水圧システムが追加搭載された。1960年1月には、T-43の高い速度及び高度性能に比例して増加する燃料消費量を賄うために翼内にもインテグラル式燃料タンクを設置した機体としてT-43-12(Т-43-12)が開発された。インテグラル式燃料タンクを機体構造に組み込んだのは、この機体が世界初となった。その後、西側各国でも機内燃料タンクのインテグラル化が進められた。だが、翼内にまで燃料タンクを設置した戦闘機はあまり例がない。これは、T-43がよほど燃料を大量に消費したことと、それに対処するために設計者が大いに努力を行ったことの表れである。各種試験においてT-43は高い評価を得、その研究成果は量産へ向けたT-3の完成に反映されることとなった。
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