NYY、PIT時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:57 UTC 版)
「オレステス・デストラーデ」の記事における「NYY、PIT時代」の解説
フィデル・カストロ統治時代のキューバで産まれ、5歳の時に家族とともにメキシコを経由してアメリカ合衆国に亡命した。当初は叔父の住むニューヨークに住み、英語の話せない父はタクシー運転手、大学の教員だった母はスペイン語教師をしていたが、生活は苦しかった。このため、9歳の時に一家はキューバ人亡命者のコミュニティがあるフロリダ州マイアミに移住している。 マイアミで野球を始めてフレッド・マグリフらと仲良くなったが、高校時代は目立った実績を挙げていない。デストラーデは野球を始めた時から右打ちだったが、元来左利きであるため左打者に転向したことがあったものの、左投手の変化球にタイミングを崩され、左投手のときだけ右打ちに戻すようになったことで両打ちになった。タンパにあるフロリダ短期大学(英語版)に進むと、野球とバスケットボールに夢中になった。この間、実家から離れた事で精神的に成長したという。同校では58試合で23本塁打を放ち、フロリダ州の短期大学のシーズン記録を更新した。この活躍で注目され、1981年にニューヨーク・ヤンキースと契約した。しかしマイナーリーグで右足の靭帯断裂と骨折という重傷を負い、一時は選手生命が終わったと感じるなど、1987年9月11日のメジャーデビューまでに約8年間を要した。 1988年5月30日、ヒッポリト・ペーニャ(英語版)とのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。同年はAAAのバッファロー・バイソンズで4番を務め、5月には2度の1試合4安打、6月には4試合連続本塁打を記録している。9月11日の対フィリーズ戦ではスティーブ・ベドローシアンからMLB初の本塁打を放っている。同年にNPBの中日ドラゴンズからオファーがあったというが、まだメジャーでのプレイを希望していたため断った。 1989年は阪神タイガース監督の村山実が獲得を希望してデストラーデと食事までしていたが、フロントの拒否によって破談となった。その後バイソンズでプレーしていたところ、チームの主砲を務めていたタイラー・バン・バークレオの不振を受けてアメリカで選手を探していた西武ライオンズ球団管理部長の根本陸夫がオファーを出し、外国人選手としては格安の年俸3,250万円(推定)で入団契約を結んだ。
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