H・L・ゴールド退職後
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「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の記事における「H・L・ゴールド退職後」の解説
1959年、グインは別のSF雑誌『イフ』誌もクイン社から獲得し、ゴールドに編集を任せた。59年7月号以降がゴールドの編集である。『ギャラクシー』が隔月刊となったことはゴールドの仕事量を軽減する助けになった(ゴールドは健康を害していた)。『イフ』と『ギャラクシー』はいずれも隔月で、出版は毎月交互に行なわれたため、ゴールドは両方に力を注ぐことができた。しかしながら翌年、ゴールドは自動車事故で重傷を負い、編集長を続けることが不可能になった。フレデリック・ポールが1961年前半から補佐に当たった(ただし彼が正式に編集長となったのは1961年10月号からである)。 1969年、グインは『ギャラクシー』をUPD社(Universal Publishing and Distribution Corporation)に売却し、ポールは辞任して作家業に戻った。UPD社のエイラー・ヤコブソンが後任となった。レスター・デル・レイは編集部員として居残ったが、その後ジュディ・リン・ベンジャミン(デル・レイ夫人)に地位を譲った。ジャック・ゴーハンは美術部門の編集者に任じられた。UPD社による買収が行なわれた時、既に『ギャラクシー』の発行部数は落ち込んでいた。買収後には更なる落ち込みに見舞われ、たった1年間のうちに部数は7万5300から5万1479となった。UPD社の経営陣は経費を抑えて利率を上げることを決定した。『ギャラクシー』は1970年8月から隔月となった。ページ数は、UPDによる買収時に196ページから160ページに減ったが、隔月化に対応して再び増加し、値段も60セントから75セントになった。1972年5月からはイギリス版の発行が始まった(UPDの子会社であるタンデム・ブックスから発行された)。これらの策により、利益は著しく増加した。 70年代前半、UPD社には財政上の困難が降りかかり始めた。ジュディ・リン・デル・レイがバランタイン・ブックスに転職するとヤコブソンの仕事量は増大した。過労に耐えかねた彼は1年と持たずに退職し、1974年6月号からはジェイムズ・ビーンが編集長となった。彼は『イフ』の編集も兼任したが、紙の値段の高騰により両誌の存続は苦しくなり、『イフ』は『ギャラクシー』に統合された。1973年9月からは再び月刊となったが、完全な月刊ではなかった。ビーンは就任時には4万7789であった発行部数を退任時には8万1035まで回復させた。『ギャラクシー』はUPD社にとって赤字の元ではなくなったが、親会社への財政的圧力は大きく、ビーンは77年10月号を最後に『ギャラクシー』を去った。その後任はジョン・J・ピアースであったが、彼の下で『ギャラクシー』はただ発行部数を落とすのみであった。負債は増大し、ピアースは一年と経たないうちに辞任した。彼の部下は「ピアースは自分の仕事を愛していたし、自分が何を喋っているのかよく理解していた」が、彼の下では編集部は非効率にしか動かなかったと回想している。1978年末にハンク・スタインが編集長に着任。彼が発行したのは1979年6・7月号と9月号の2巻のみである。その直後にUPD社は破産し、『ギャラクシー』の経営権はヴィンセント・マキャフリーが新設したギャラクシー・マガジン株式会社に移った。スタインは更に2巻を編集したが、未刊に終わった。別の雑誌『ガリレオ』の発行者でもあったマキャフリーは、資金難のために計画通りに『ギャラクシー』を発行することができなかったのである。マキャフリー体制は、ただ1巻の(そして最後の)『ギャラクシー』を出して終わった。最終号(1980年7月号)は大判で、Floyd Kemskeによって編集された。その後、1980年10月号が編集はされたが刊行はされなかった。 1994年、H・L・ゴールドの息子E・J・ゴールドの編集により、『ギャラクシー』はセミプロ誌としてごく短期間だけ復活した。94年1・2月号から95年3・4月号まで、隔月で8巻が発行された。
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