Captain Funkの誕生と初期活動
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「オオエタツヤ」の記事における「Captain Funkの誕生と初期活動」の解説
東京大学経済学部を卒業後、大手広告代理店の電通在籍中にコンピューターを使った作曲・音楽制作を本格的に開始する。1990年代半ばの日本においてエレクトロニックミュージックへの理解は薄く、またマーケットとしても十分には成熟していなかった。そのためオオエは当時、昼間は会社勤め、夜はDJ活動という生活を続けている。 1997年、ヨーロッパの幾つかのレーベルからのオファーを受けつつも、イタリアのダンス・レーベルACVよりTATSUYA OE名義『Dazzilin’』をリリースする。1998年 には、ソロ・プロジェクトであるCAPTAIN FUNKの名義でファースト・アルバム『Encounter with…』をリリース。黒人音楽からパンクロックまで幅広いルーツを背景にコンピューター、鍵盤、ギターまで様々な楽器を操り、エレクトロニック・ミュージックの中でも日本人離れしたグルーヴと高揚感を持ったテイストで当時のクラブシーン新風を吹き込んだと言われている。 1999年には、Captain Funkの知名度は特に欧米のクラブシーンにおいて急激に高まりを見せる。イギリス大手ダンス・レーベルであるミニストリー・オブ・サウンドは、彼らの雑誌で「Captain Funk will make you believe!(キャプテン・ファンクは信用できる!)」と評している。またタイムアウト誌は彼の音楽を「Vibrant delight!(震えが起こるほどの感動!)」と描写。 ノーマン・クック(ファットボーイ・スリム)はオオエの音楽を「何という狂ったレコードなんだ!!(What a f***ing insane record)。とても気に入ったよ。忘れずにプレイするからもう2枚レコードを送ってくれないか?」とコメントし、所属レーベルに直筆ファックスが送られてきたというエピソードがよく知られている。 デビューから1年後、オオエの知名度が高まるにつれて、オオエの楽曲を自らのDJに使用するアーティストも増加する。ファットボーイ・スリムのみならず、コールドカットNinja Tune、サイベグ、フレディ・フレッシュ、ケン・イシイ、カール・コックス(Captain Funk 「O.Y.M」を自らのDJ Mix CD「Carl Cox Non Stop 98/01」に収録)ら世界中のDJ・メディアから認知され評価を受けるようになり、ファースト・アルバムである『Encounter With...』やシングル『Bustin' Loose EP』に収録されている楽曲が、数多くの海外コンピレーションに二次使用されるようになる。 同1999年は楽曲制作活動も活発であり、『Bustin’ Loose EP』、『Dancing in the Street'』、 DJミックスCD『Style』をリリースする。2000年にリリースされた、Captain Funk名義でのフルアルバム『Songs of the Siren』は米 ビルボード誌アジア部門の「THE YEAR IN MUSIC 」に選出された。 認知度の高まりと比例し活発になる楽曲制作活動の傍ら、オオエはパーティー、イベントにおいても精力的にDJ及びライブ活動も行う。フジロック・フェスティバル (1999年、2000年、2007年参加)、ROCK IN JAPAN FESTIVAL (2006年参加)のような日本での大型音楽イベントに加え、国外においてもイギリスの「Turnmills(ターンミルズ)」「Heaven (nightclub)(ヘヴン)」、フランス(「Global Tekno」、「Festival de Saint-Nolff」)、ドイツ、香港、シンガポール(「Zouk」)、韓国などのパーティー、イベントで活躍した。 フランスやドイツにおいてもCaptain Funkの名を知る人は多く、1998年デビュー直後には既に同時期にデビューしたボブ・サンクラーや、エイフェックス・ツイン、ダフト・パンクの出演したフランス初の大規模エレクトロニック・ミュージックフェスティバル「Global Tekno」に唯一の日本人アーティストとして招待されライブ出演している。
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