BASICの移植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 12:43 UTC 版)
詳細は「Altair BASIC」を参照 1974年12月にゲイツはアレンから、ポピュラーエレクトロニクス誌にアルテア8800の記事が載っているのを教えられた。これを読んだゲイツとアレンはアルテア8800用にBASICインタプリタを作成することを考えた。ゲイツは、アレンの名前を騙って、アルテア8800を販売していたハードメーカーのMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「現在開発中であり、間も無く完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言って鎌をかけた。電話に応対したMITSのエド・ロバーツ社長は、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えた。これを受けて、彼らはBASICインタプリタの開発を開始した。彼らはアルテア8800の実物を持っていなかった。そこで、アレンはハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成した。 8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成した。1975年3月、デモのため、アレンがニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSへ向かった。この際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気が付き、移動中の飛行機中で完成させた。こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功し動作した(この時ゲイツはボストンの大学寮でアレンの帰りを待っており、同席はしていない)。ゲイツらが作ったBASICインタプリタはアルテア・ベーシックとして販売された。 1975年4月にアレンはMITSの社員となった。一方のゲイツはハーバード大学の学生のままであり、学期が終わって夏休みになるとアルバカーキにやってきてBASICインタプリタの改良を手伝った。その後、9月になるとゲイツはハーバード大学に帰っていった。以降は1976年の春期・1976年の秋期のいずれもゲイツはハーバード大学におり、大学が休みの間にアルバカーキにやって来るという状態を続けていた。1977年2月に(日本でいえば大学4年生の前期終了時に相当する。)ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることは無かった。この時(1977年2月)ゲイツとアレンの間で、パートナーシップに関する合意書が交わされた。 BASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもってマイクロソフト社の創業とされることがあるが、上記のように、実際には1975年4月時点ではマイクロソフトという法人は存在せず、そもそもマイクロソフトという名称自体も存在していない。また、上述のように、BASICインタプリタ事業が始まってからも、ゲイツはその後の約2年間は、実質的にもハーバード大学の学生であり続けている。パートナーシップ形成に関してゲイツとアレンの間で合意書が交わされ、パートナーシップによる経営としてマイクロソフトが正式にスタートするのは、1977年2月である。 マイクロソフトという名前自体は1975年7月にアレンが考え出した。アレンによると、その時点ではマイクロソフトという名前は、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎなかった。なおチーム名という形にせよ、文書でマイクロソフトの名前が確認できるのは、1975年10月にMITSの社長であったエド・ロバーツが書いた記事が初出である。このころはMicro-softとハイフンを含む名前であった。1976年にホビイストたちの多くが自社のBASICを違法にコピーして使っていたことを非難する『ホビイストたちへの公開状』を書いた。
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