3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家
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「浅田家文書」の記事における「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」の解説
浅田家の御用地黄の記録は正徳2年(1712年)で終わっており、その後浅田家が地黄を納入した形跡はない。その理由を明確に史料には見いだせないが、(1)正徳2年8月の 木津川洪水で地黄生産地である富野村が打撃を受けたため良質の地黄が入手できなくなった。(2)上狛村も水害以来不作続きで浅田家は自家の経営と庄屋としての仕事に追われた。(3)五郎兵衛から正徳5年に庄屋役を引き継いだ息子(市十郎)金兵衛は享保8年に大庄屋になったものの享保17年に44歳で病死し、その子五郎兵衛は西法花野村庄屋になったが当時まだ20歳で、しかも多額の負債処理(借銀の銀52貫・金872両に対し貸銀は藤堂藩の御借上銀など銀98貫・金1691両といわゆる貸倒れである)にも当らなければならなかった。このように正徳2年を境に南山城にも、浅田家にも農業にも商業にも大きな変化が生じていった。そして18世紀後半の淺田家は農業に専念し手作経営に力を注ぐ姿が見られ再び商人的活動が見いだせるのは18世紀末のこととなる。その頃の淺田家は木津の船持堺屋庄兵衛を相手に倉庫業のような商売をしていた。天明期に領主・津藩による苛酷な負担に苦しみ経営難に陥っていた西法花野村の豪農浅田家が、木津川舟問屋・堺屋八木家からの金融により苦境を凌ぎ、在方肥料商人として地域への安価な肥料の導入に努めたことから地全体の生産力向上をもたらし、浅田家の手作、小作経営の収益を押し上げて資産を蓄積した。 この頃には浅田家とは別のタイプの商人、つまり地主ではない商人も力をつけてきていたようで、これらの商人の多くは繰綿商売に携わっており、やがて茶商人にも転じていった。洪水については当時の上狛村が書き上げた史料によれば、新在家前の堤は二五〇間にわたって切れ、その東の内垣内の堤は二〇間切れた。このほか五ケ所の堤が欠け、他領林村を含む狛五ケ村で流出した家二七軒、潰れた家一七軒であったが、木津では流失・潰滅した家合わせて七〇〇軒余り、流死者は百人余であった。富野村で流失した家一三七軒、潰れた家五〇軒、流死者六人。上流の加茂郷では現在の「船屋」地区を含む里村・大野村辺りが水没し、正徳2年の水害後、集落は山麓に移転したという。 史料的に見ると、 近世末から近代初期の浅田家では、三代目金兵衛(八代目当主)の頃から淺田家の経営危機からの立て直しもあり、農業に専念し手作経営に力を注ぐ姿が特徴である。当時、勃興しつつあった茶業に関しても関わった形跡は少ない。ただ1908年に柳沢平五郎家から淺田梶の夫として入夫した淺田操の名が山城製茶株式会社の監査役にあるが、直接的な会社経営とは言えない 。
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