3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家の意味・解説 

3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 07:26 UTC 版)

浅田家文書」の記事における「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」の解説

浅田家御用地黄の記録正徳2年1712年)で終わっており、その後浅田家地黄納入した形跡はない。その理由明確に史料には見いだせないが、(1)正徳2年8月木津川洪水地黄生産地である富野村打撃受けたため良質地黄入手できなくなった。(2)上狛村水害以来不作続き浅田家自家の経営庄屋としての仕事追われた。(3)五郎兵衛から正徳5年庄屋役を引き継いだ息子(市十郎金兵衛享保8年大庄屋になったものの享保17年44歳病死しその子五郎兵衛は西法花野村庄屋になった当時まだ20歳で、しかも多額負債処理(借銀の銀52貫・金872両に対し貸銀は藤堂藩の御借上銀など銀98貫・金1691両といわゆる貸倒れである)にも当らなければならなかった。このように正徳2年を境に南山城にも、浅田家にも農業にも商業にも大きな変化生じていった。そして18世紀後半淺田家農業専念し手作経営力を注ぐ姿が見られ再び商人活動が見いだせるのは18世紀末のこととなる。その頃淺田家木津船持堺屋庄兵衛相手倉庫業のような商売をしていた。天明期に領主津藩による苛酷な負担苦しみ経営難に陥っていた西法花野村豪農浅田家が、木津川舟問屋・堺屋八木家からの金融により苦境凌ぎ在方肥料商人として地域への安価な肥料導入努めたことから地全体生産力向上をもたらし浅田家の手作、小作経営収益押し上げて資産蓄積したこの頃には浅田家とは別のタイプ商人、つまり地主ではない商人も力をつけてきていたようで、これらの商人多く繰綿商売携わっており、やがて茶商人にも転じていった。洪水については当時の上書き上げた史料によれば新在家前の堤は二五〇間にわたって切れ、その東の内垣内の堤は二〇間切れた。このほか五ケ所の堤が欠け他領林村を含む五ケ流出した二七軒、潰れた一七であったが、木津では流失潰滅した家合わせて〇〇余り、流死者百人であった富野村流失した一三七軒潰れた家五〇軒、流死者六人上流加茂郷では現在の船屋地区を含む里村大野村辺り水没し正徳2年水害後、集落山麓移転したという。 史料的に見ると、 近世末から近代初期浅田家では、三代目金兵衛八代目当主)の頃から淺田家経営危機からの立て直しもあり、農業専念し手作経営力を注ぐ姿が特徴である。当時勃興しつつあった茶業に関しても関わった形跡少ない。ただ1908年柳沢五郎家から淺田の夫として入夫した淺田操の名が山城製茶株式会社監査役にあるが、直接的な会社経営とは言えない 。

※この「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」の解説は、「浅田家文書」の解説の一部です。
「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」を含む「浅田家文書」の記事については、「浅田家文書」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家」の関連用語

3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家のお隣キーワード

3. 正国寺跡説

3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家

3次職

3次職業

3次車

3次量産車

3歳

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



3.正徳2年の南山城水害と近世末・近代初期の浅田家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの浅田家文書 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS