2008年ロシア連邦大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 02:04 UTC 版)
「タンデム体制」の記事における「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説
「2008年ロシア大統領選挙」も参照 2000年5月から2008年5月までの2期8年に渡ってプーチンは大統領を務めていたが、ロシア連邦憲法では大統領の連続3選が禁止されているため、プーチンが大統領職を2期で退任するのか、他の旧ソビエト連邦・CISの各国指導者に見られるように憲法改正を行い、大統領任期延長を図るのかが注目された。与党の統一ロシアやシロヴィキに影響力を持つプーチンは、2007年ロシア下院選挙で統一ロシアの比例名簿1位に登載されて当選し、2008年4月に統一ロシア党首に就任した。プーチンはこうした政官界への影響力を背景に後継大統領候補にメドヴェージェフ第一副首相をつけて大統領選挙で当選させ、自身を首相に指名させた。 2008年5月8日にメドヴェージェフ大統領・プーチン首相体制が始まった。プーチンは8年間の大統領経験と統一ロシアやシロヴィキの影響力を背景に、本来大統領として大きな権限を持つはずのメドヴェージェフ以上の政治的影響力を維持した。また、プーチンは政府幹部会 (ru:Президиум Правительства) を8年ぶりに設置し、首相として政府幹部会議長に就任した。政府幹部会は週1回行われ副首相や大統領が人事権をもつ外相や国防相も参加する一方で、大統領が主宰していた週1回の閣議が大幅に減ったため、政府幹部会は事実上の政府最高意思決定機関と目された。メドヴェージェフはユーラシア関税同盟拡大問題(ユーラシア連合構想)・モスクワ市長人事(ユーリ・ルシコフ解任)などでプーチンと方針対立が報じられることもあったが、プーチンと決定的に対立することは無かった。
※この「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説は、「タンデム体制」の解説の一部です。
「2008年ロシア連邦大統領選挙」を含む「タンデム体制」の記事については、「タンデム体制」の概要を参照ください。
2008年ロシア連邦大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:04 UTC 版)
「ミハイル・カシヤノフ」の記事における「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説
2007年12月8日に翌年の2008年ロシア連邦大統領選挙に立候補を表明した。これに伴い右派勢力同盟のボリス・ネムツォフは大統領選立候補を辞退し、リベラル派、野党勢力で候補を一本化することに言及した。しかし、2008年1月27日にロシア中央選挙管理委員会は候補者登録に必要な200万人の署名の偽造・無効が規定の5パーセント以内を上回る13.36パーセントであるとしてカシヤノフの登録を拒否した。カシヤノフはこの決定をプーチンの指示によるものとして非難している。
※この「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説は、「ミハイル・カシヤノフ」の解説の一部です。
「2008年ロシア連邦大統領選挙」を含む「ミハイル・カシヤノフ」の記事については、「ミハイル・カシヤノフ」の概要を参照ください。
2008年ロシア連邦大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:37 UTC 版)
「ドミートリー・メドヴェージェフ」の記事における「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説
2007年12月10日にプーチンは翌年に実施される大統領選挙で、自身の後継者としてメドヴェージェフを指名した。これに続き、政権与党である統一ロシア・公正ロシア・農業党・市民勢力・緑の党・ロシアの愛国者などの諸政党も大統領選挙の候補者にメドヴェージェフを擁立することを決定した。一方で指名を受けたメドヴェージェフは大統領選挙後にプーチンを首相に指名する意向を示した。また12月20日にロシア中央選挙管理委員会に大統領選挙への立候補を申請した後、大統領に当選した場合はガスプロムの会長職を退くことを表明した。選挙公約としては、中小企業への支援・司法改革・汚職対策などを掲げた。その後翌年3月2日に2008年ロシア連邦大統領選挙が実施され、メドヴェージェフは下馬評通りに圧勝した。勝利後メドヴェージェフはプーチン路線を継承すると発言した。 詳細は「2008年ロシア大統領選挙」を参照
※この「2008年ロシア連邦大統領選挙」の解説は、「ドミートリー・メドヴェージェフ」の解説の一部です。
「2008年ロシア連邦大統領選挙」を含む「ドミートリー・メドヴェージェフ」の記事については、「ドミートリー・メドヴェージェフ」の概要を参照ください。
- 2008年ロシア連邦大統領選挙のページへのリンク