2つのアカデミーの指導者
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「エカテリーナ・ダーシュコワ」の記事における「2つのアカデミーの指導者」の解説
1782年に帰国したダーシュコワは、1774年にエカテリーナと結婚していたと伝えられるグリゴリー・ポチョムキン公爵を通じて女帝に拝謁する。次男パーヴェルは将校に任官し、ポチョムキンの副官として南ロシアに赴任する。1783年1月24日、ダーシュコワ夫人は女帝エカテリーナ2世によって、サンクトペテルブルク科学アカデミー院長(総裁はキリル・ラズモフスキー伯爵)に任命される。科学アカデミー院長として、ダーシュコワは、アカデミーにおける学者の優位を確認するとともに、帝国に研究成果を普及することを方針とする。財政再建と出版活動の活性化にも力を注ぎ、レオンハルト・オイラーの論文集や教科書、地図、ロモノーソフ全集を出版し、廉価で販売したため、約16万ルーブルの黒字を生んだ。この資金を元に学者のための基金を創設。さらに幾何学、力学、化学、地理学、博物学の公開講座を開催し、下級貴族や下士官を中心とする各層に門戸を開いた。 1783年夏、参内したダーシュコワは女帝にロシア語研究の必要性を言上して同意を得、その場でロシア・アカデミーの創設と総裁就任を打診される。9月30日ロシア・アカデミーが設立され、ダーシュコワは同アカデミー総裁に就任、科学アカデミー院長を兼任し、ロシア帝国の二つのアカデミーの長として、ロシアの教育、文化、科学政策の総責任者となる。ダーシュコワは、科学アカデミー書記で言語学に精通していたイワン・レピョーヒンをロシア・アカデミー常任書記に任命し、実務における補佐役とした。10月21日、ロシア・アカデミー設立総会が開かれ、同アカデミーは、ロシア語文法研究、ロシア語辞典作成等を目的とすることを決定した。ロシア語辞典作成において、ダーシュコフ自身も3文字担当することになったが、配列を巡り紛糾する。アカデミー側は語源を同一とする学術的配列を主張したのに対して、女帝周辺は、アルファベット順を主張した。結局、この問題は、アカデミー側が1778年エカテリーナ2世のクリミア行幸中に、ロシア語配列を決定し解決する。1793年ロシア・アカデミー辞典(全6巻)が完成する。
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