1995 ラグビーワールドカップ
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概要 | |
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開催国 | ![]() |
期間 | 5月25日 – 6月24日 |
出場国数 | 16ヶ国 (予選出場52ヶ国) |
最終結果 | |
優勝国 ![]() |
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準優勝国 ![]() |
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統計 | |
試合数 | 32 |
観客動員数 | 1,100,000人 (1試合平均34,375人) |
最多得点選手 | ![]() |
最多トライ選手 | ![]() ![]() |
← 1991
1999 →
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1995 ラグビーワールドカップは、1995年5月25日から6月24日まで、南アフリカ共和国で開催された第3回ラグビーワールドカップ。
これまでアパルトヘイトの影響によりIRB主催大会から除名されていた南アフリカが初開催とともに初出場、そして初優勝を果たした。
予選プール
A組
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 68 | 26 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 87 | 41 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 45 | 50 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 14 | 97 | 3 |
B組
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 95 | 60 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 96 | 88 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 69 | 94 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 69 | 87 | 3 |
C組
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 225 | 45 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 93 | 94 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 89 | 68 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 55 | 252 | 3 |
D組
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 114 | 47 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 149 | 27 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 44 | 90 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 29 | 172 | 3 |
決勝トーナメント
準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
6月10日 - Ellis Park, ヨハネスブルグ | ||||||||||
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42 | |||||||||
6月17日 – Kings Park Stadium, ダーバン | ||||||||||
![]() |
14 | |||||||||
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19 | |||||||||
6月10日 – Kings Park Stadium, ダーバン | ||||||||||
![]() |
15 | |||||||||
![]() |
36 | |||||||||
6月24日 – Ellis Park, ヨハネスブルグ | ||||||||||
![]() |
12 | |||||||||
![]() |
15 | |||||||||
6月11日 – Newlands, ケープタウン | ||||||||||
![]() |
12 | |||||||||
![]() |
25 | |||||||||
6月18日 – Newlands, ケープタウン | ||||||||||
![]() |
22 | |||||||||
![]() |
29 | 3位決定戦 | ||||||||
6月11日 – Loftus Versfeld, プレトリア | ||||||||||
![]() |
45 | |||||||||
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48 | ![]() |
19 | |||||||
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30 | ![]() |
9 | |||||||
6月22日 – Loftus Versfeld, プレトリア | ||||||||||
決勝
6月24日 15:00(SAST) |
南アフリカ共和国 ![]() |
15 – 12 (延長戦) | ![]() |
エリス・パーク・スタジアム(ヨハネスブルグ) 観客動員数: 63,000人 審判: エド・モリソン (イングランド協会) |
---|---|---|---|---|
Pen: Stransky (3) Drop: Stransky (2) |
Report | Pen: Mehrtens (3) Drop: Mehrtens |
1995 ワールドカップ優勝国 |
---|
![]() 南アフリカ共和国 初優勝 |
日本代表
今大会で日本はC組でウェールズ、アイルランド、ニュージーランドと同組になり、3戦すべてブルームフォンテーンのフリーステイト・スタジアムで戦った。
しかし、3戦全敗に終わり、特にニュージーランドに対しては17-145と、1試合最多失点の大会記録となる大敗を喫し、「ブルームフォンテーンの悪夢」と呼ばれている。
関連項目
- インビクタス/負けざる者たち - 今大会を題材とした映画作品。
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ラグビーワールドカップ1995
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概要 | |
---|---|
開催国 | ![]() |
期間 | 1995年5月25日 – 6月24日 |
出場国数 | 16ヶ国 (予選出場45ヶ国+自動出場9ヶ国) |
最終結果 | |
優勝国 ![]() |
![]() |
準優勝国 ![]() |
![]() |
3位 ![]() |
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統計 | |
試合数 | 32 |
観客動員数 | 1,100,000人 (1試合平均34,375人) |
最多得点選手 | ![]() |
最多トライ選手 | ![]() ![]() |
← 1991
1999 →
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ラグビーワールドカップ1995は、1995年5月25日から6月24日まで、南アフリカ共和国で開催された第3回ラグビーワールドカップ。
これまでアパルトヘイトの影響によりIRB主催大会から除名されていた南アフリカが初開催とともに初出場、そして初優勝を果たした。
予選
開催国である南アフリカと、第2回大会ベスト8が予選を免除され、残りの7枠を各大陸に割り当てた。
大陸予選
- アジア1
- オセアニア1
- アフリカ1
- アメリカ大陸1
- ヨーロッパ3
アジア予選
1994年アジアラグビーフットボール大会を制した日本が本大会出場権を獲得。
- アジア予選敗退(台湾、マレーシア、スリランカ、韓国、香港、タイ、シンガポール)
日本が本大会進出。
オセアニア予選
フィジーとトンガが対戦し、2戦合計34-26で勝利したトンガが本大会出場権を獲得した。
1993年6月12日 |
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11–24 | ![]() |
スバ フィジー |
---|---|---|---|---|
1993年7月17日 |
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10–15 | ![]() |
ヌクアロファ, トンガ |
---|---|---|---|---|
トンガが本大会進出。
アフリカ予選
1次予選を通過した4チームが出場し、1回総当たりのリーグ戦で上位1チームが本大会出場権を獲得。
- 1次予選敗退(ケニア、アラビアンガルフ、チュニジア)
出場国 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 総得点 | 総失点 | 得失点差 | 勝ち点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 2 | 0 | 1 | 39 | 39 | +0 | 7 |
![]() |
3 | 1 | 1 | 1 | 53 | 49 | +4 | 6 |
![]() |
3 | 1 | 1 | 1 | 42 | 46 | -4 | 6 |
![]() |
3 | 1 | 0 | 2 | 51 | 51 | +0 | 5 |
コートジボワールが本大会進出。
アメリカ大陸予選
1993年南米ラグビー選手権を制したアルゼンチンとバミューダを破ったアメリカ合衆国が対戦し、2連勝したアルゼンチンが本大会出場権を獲得。
- 南米予選敗退(ウルグアイ、パラグアイ、チリ)
1994年5月28日 |
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22–28 | ![]() |
ロングビーチ アメリカ合衆国 |
---|---|---|---|---|
1994年6月20日 |
![]() |
16–11 | ![]() |
ブエノスアイレス, アルゼンチン |
---|---|---|---|---|
アルゼンチンが本大会進出。
ヨーロッパ予選
1次予選を通過した8チームとウェールズの計9チームが参加した。3チームずつ3組の1回総当たりのリーグ戦で上位1チームが本大会出場権を獲得。
- 予備予選敗退(デンマーク、アンドラ、ルクセンブルク(棄権)、ハンガリー、ユーゴスラビア(失格))
- 1次予選敗退(ベルギー、スイス、スウェーデン、イスラエル、ポーランド、ジョージア、ラトビア、リトアニア)
2次予選(西)
出場国 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 総得点 | 総失点 | 得失点差 | 勝ち点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
2 | 2 | 0 | 0 | 156 | 11 | +145 | 6 |
![]() |
2 | 1 | 0 | 1 | 35 | 73 | -38 | 4 |
![]() |
2 | 0 | 0 | 2 | 30 | 137 | −107 | 2 |
2次予選(中央)
出場国 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 総得点 | 総失点 | 得失点差 | 勝ち点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
2 | 2 | 0 | 0 | 167 | 17 | +150 | 6 |
![]() |
2 | 1 | 0 | 1 | 44 | 72 | -28 | 4 |
![]() |
2 | 0 | 0 | 2 | 17 | 139 | −122 | 2 |
2次予選(東)
出場国 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 総得点 | 総失点 | 得失点差 | 勝ち点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
2 | 2 | 0 | 0 | 45 | 28 | +17 | 6 |
![]() |
2 | 1 | 0 | 1 | 43 | 35 | +8 | 4 |
![]() |
2 | 0 | 0 | 2 | 15 | 40 | −25 | 2 |
1位のウェールズ、2位のイタリア、3位のルーマニアが本大会進出。(順位は3チームによるリーグ戦の結果による)
出場チーム
予選名 | 前回大会順位 予選順位 |
出場チーム | 出場回数 |
---|---|---|---|
開催国 | ![]() |
初出場 | |
前回大会 ベスト8 |
優勝 | ![]() |
3大会連続3回目 |
準優勝 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
3位 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
4位 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
ベスト8 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
![]() |
3大会連続3回目 | ||
![]() |
2大会連続2回目 | ||
![]() |
3大会連続3回目 | ||
ヨーロッパ地区 | 1位 | ![]() |
3大会連続3回目 |
2位 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
3位 | ![]() |
3大会連続3回目 | |
アジア地区 | 1位 | ![]() |
3大会連続3回目 |
オセアニア地区 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり2回目 |
アメリカ地区 | 1位 | ![]() |
3大会連続3回目 |
アフリカ地区 | 1位 | ![]() |
初出場 |
プールステージ
プールA
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 68 | 26 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 87 | 41 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 45 | 50 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 14 | 97 | 3 |
プールB
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 95 | 60 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 96 | 88 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 69 | 94 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 69 | 87 | 3 |
プールC
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 222 | 45 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 93 | 94 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 89 | 68 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 55 | 252 | 3 |
プールD
Team | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
3 | 0 | 0 | 114 | 47 | 9 |
![]() |
2 | 0 | 1 | 149 | 27 | 7 |
![]() |
1 | 0 | 2 | 44 | 90 | 5 |
![]() |
0 | 0 | 3 | 29 | 172 | 3 |
決勝トーナメント
準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
6月10日 - Ellis Park, ヨハネスブルグ | ||||||||||
![]() |
42 | |||||||||
6月17日 – Kings Park Stadium, ダーバン | ||||||||||
![]() |
14 | |||||||||
![]() |
19 | |||||||||
6月10日 – Kings Park Stadium, ダーバン | ||||||||||
![]() |
15 | |||||||||
![]() |
36 | |||||||||
6月24日 – Ellis Park, ヨハネスブルグ | ||||||||||
![]() |
12 | |||||||||
![]() |
15 | |||||||||
6月11日 – Newlands, ケープタウン | ||||||||||
![]() |
12 | |||||||||
![]() |
25 | |||||||||
6月18日 – Newlands, ケープタウン | ||||||||||
![]() |
22 | |||||||||
![]() |
29 | |||||||||
6月11日 – Loftus Versfeld, プレトリア | ||||||||||
![]() |
45 | 3位決定戦 | ||||||||
![]() |
48 | |||||||||
6月22日 – Loftus Versfeld, プレトリア | ||||||||||
![]() |
30 | |||||||||
![]() |
19 | |||||||||
![]() |
9 | |||||||||
決勝
6月24日 15:00(SAST) |
南アフリカ共和国 ![]() |
15 – 12 (延長戦) | ![]() |
エリス・パーク・スタジアム(ヨハネスブルグ) 観客動員数: 63,000人 レフリー: エド・モリソン (イングランド協会) |
---|---|---|---|---|
Pen: Stransky (3) Drop: Stransky (2) |
Report | Pen: Mehrtens (3) Drop: Mehrtens |
1995 ワールドカップ優勝国 |
---|
![]() 南アフリカ共和国 初優勝 |
日本代表
今大会で日本はC組でウェールズ、アイルランド、ニュージーランドと同組になり、3戦すべてブルームフォンテーンのフリーステイト・スタジアムで戦った。
しかし、日本代表は、3戦全敗に終わり、特にニュージーランドに対しては17-145と、1試合最多失点の大会記録となる大敗を喫し、「ブルームフォンテーンの悪夢」(メディアによっては「ブルームフォンテーンの惨劇」とも)[1]と呼ばれている。この試合はニュージーランド代表の最大差勝利試合及び、日本代表の最大差敗戦試合にもなっている。
映画『インビクタス/負けざる者たち』では、マンデラ大統領(モーガン・フリーマン)がニュージーランドの145得点を聞き、その強さに驚愕するシーンがある。
関連項目
- インビクタス/負けざる者たち - 今大会を題材とした映画作品。
外部リンク
- ラグビーワールドカップ公式ウェブサイト(英語)(フランス語)(スペイン語)(日本語)
- ラグビーワールドカップ公式Facebook(英語)(フランス語)(スペイン語)(日本語)
- ラグビーワールドカップ公式Twitter(日本語)
- ラグビーワールドカップ公式Twitter(英語)
- ^ “「ブルームフォンテーンの惨劇」から24年、ラグビーW杯日本大会で見る夢 - スポーツ報知”. スポーツ報知 (2019年10月15日). 2023年11月30日閲覧。
「1995 ラグビーワールドカップ」の例文・使い方・用例・文例
- 1995年にごみ箱を使ったテロ事件がありました。それ以来、特に駅ではごみ箱の数が減っています。
- ベンチャー企業を対象とした第2店頭株市場は1995年に創設され、1998年に廃止された。
- この特許は1995年に適用された。
- 私は1991年から1995年まで中国にいた。
- 1995年の秋に.
- モントリオール協定 《1995 年までにフロンガスの使用を禁止しようという協定》.
- 1995年のオクラホマシティの連邦建物の爆破は、国内のテロリズムの実例であった
- 1995年に、オウムメンバーは、東京地下鉄電車に致命的なサリンガスを放った
- アル・ファタハの武装派として1995年にヤセル・アラファトが組織したテロリスト集団
- 1995年に組織されて、アルカイダと提携していたリビアのテロリストのグループ
- 国内の敵に敵対し、サダム・フセインに貢献するために、1995年に若い軍人によって形成された恐れられた準軍事的な部隊
- 米国の法律専門家で、リチャード・ニクソンにより連邦最高裁判所の長官に任命された(1907年−1995年)
- 米国の上院議員で、米国と他国の間の教師と学生の交換プログラムに資金を供給する補助金を作ったことで知られる(1905年−1995年)
- 米国の歌手(1917年−1995年)
- 英国の経済学者で、国際貿易と金融の研究で知られる(1907年−1995年)
- 米国のダンサー、映画女優で、フレッド・アステアと組んだ(1911年−1995年)
- 英国の詩人で批評家(1909年−1995年)
- アイルランドの物理学者で、(1931年にサー・ジョン・クッククロフトと共に)初めて原子をばらばらにした(1903年−1995年)
- 米国の物理学者(ハンガリー生まれ)で、原子とその核の構造に対する研究で知られる(1902年−1995年)
- 松本被告は1995年に逮捕された。
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