1974年日本側の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 22:46 UTC 版)
「日豪砂糖交渉」の記事における「1974年日本側の状況」の解説
太平洋戦争で打ちひしがれた日本も順調に回復し、それに伴って砂糖の需要も増えていった。1963年8月には粗糖の輸入化が自由化された。1960年代は砂糖の国際価格が低価格だったため、1964年以降の日本では砂糖の輸入が増える一方で国内生産は頭打ちになり(サトウキビ・甜菜栽培では産業保護政策があるため一定の国内農家は確保され減少まではしていない)、砂糖に占める自給率は下がっていった。1973年には日本の砂糖消費量はピークを迎え304万トンあまりが消費された。日本製糖業界は原料糖の輸入をスポット市場に頼ったため、国際砂糖市場の値動きに直接影響を受ける形となっていった。1960年代には安定していた国際砂糖相場も70年代に入ると価格上昇の局面になっていく。その中で1973年オイルショックが起こる。日本ではトイレットペーパーや洗剤などがパニック買いによって店頭から姿を消したが、砂糖もおなじくパニック買いによって店頭から姿を消す事態になっている。この時に砂糖パニックを起こしたのは一般消費者ばかりではなく菓子や清涼飲料水、パンなどの食品企業もである。むしろ消費を我慢できる一般消費者よりも死活がかかっている食品企業こそ砂糖供給の安定を求めることになる。 また、オイルショックの影響は日本だけの話ではなく世界中で物価は上がっていった。1974年砂糖の国際価格は高騰を続ける。この背景には1973年の国連砂糖会議が紛糾し1973年国際砂糖協定でも輸入や価格に関する国際的な枠組みが外れ、砂糖価格が無統制になったこともある。ニューヨーク市場では1973年11月には10セント/ポンド(重量)だった砂糖価格が1974年2月には20セント、9月には30セント、11月のピークには65.5セントになっている。 このため、日本では安い価格と量の安定した供給先が求められたのである。
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