1952 - 1953年
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北日本においては戦後最大の寒冬(特に、北海道では平年を3.4℃も下回った)である一方、南西諸島は0.4℃しか下回らず(当時の平年値では平年並み)、北冷傾向が強い寒冬だった。1月3日に八戸で歴代最低の-15.7℃を観測。
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1952-1953年
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「ポリオワクチン」の記事における「1952-1953年」の解説
1952年-1953年のイギリスでポリオウイルスが原因とされる病気が93,000件起こった、このイギリスのポリオによる伝染病の最中に、広告利益の中から数百万ドルが、ワクチンのマーケティングとポリオワクチンの研究に投資された。H.R.コックの指揮するニューヨークのレダール研究所にも投資され、レダール研究所で働いていた、ポーランド生まれでウイルス学者であり、免疫学者でもあるヒラリー・コプロウスキーによって、1950年に世界初であるポリオワクチンが成功したと発表された。コプロウスキーのワクチンは弱毒化された生ウイルスを口から投与するワクチンだったが、まだ研究段階にあり使用するにはジョナス・ソークのポリオワクチン(不活性化ウイルス注射ワクチン)の発表の後、5年を待たなければ市場には出せないものであった。コプロウスキーの弱毒化ワクチンは、継続的にスイスのアルビノ種マウスの脳を実験し続け、7度目で実験で麻痺を引き起こさずに、ポリオウイルスの神経組織への感染を防ぐ事に成功した。その後1回〜3回のラットによる実験を行った後、ワクチンのヒトへの使用の安全性を確証していった。 1950年2月27日、コプロウスキーの生きた弱毒化ワクチンはレッチワース村で生活する8歳の少年で最初のテストが行われた。コプロウスキーはニューヨークの施設では肉体的、精神的に実験を行う事ができず、実験後8歳の少年には副作用は起こらなかった。その後、コプロウスキーは実験の対象を19人(子供)に広げていった。
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