1911年の活動
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「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「1911年の活動」の解説
1911年2月21日にアドミラール・マカーロフ級の2番艦パルラーダが竣工すると、同年2月25日付けの海軍省指令第57号で、日露戦争後初めての戦時体制のバルト海連合艦隊 が編成された。その編成は、4 隻からなる戦列艦戦隊と巡洋艦戦隊、第1水雷分艦隊からなっていた。リューリクは、戦列艦ツェサレーヴィチ、スラヴァ、アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ、インペラートル・パーヴェル1世からなる戦列艦戦隊に編入された。戦列艦戦隊は、N・S・マニコーフスキイ海軍少将によって指揮された。巡洋艦戦隊は、新しいアドミラール・マカーロフとパルラーダ、それに日露戦争の生き残りのロシアとグロモボーイから編成され、すぐあとに竣工したバヤーンが加えられた。通常、バルト海海軍 司令官旗はリューリク上に掲げられ、バルト海海軍旗艦を務めた。 この年のリューリクの活動は、大クロンシュタット停泊地にて5月1日より開始された。この日、リューリクは航行試験と修理状況の確認などを実施した。しかし、艦は海図になかった浅瀬に底部を擦るという事故を起こした。検査と修繕ののち、レーヴェリ=クロンシュタット間を航行し、6月11日にはエッセン艦隊司令官の将官旗を掲げて本格的な活動を再開した。6月20日は、機関試験を行って必要物資を積載したのち、戦列艦ツェサレーヴィチとともにレーヴェリへ移動した。 夏のあいだ、リューリクは艦隊とともに射撃訓練や機動演習に取り組んだ。7月17日には、陸軍大部隊の訪問を受けた。新型の機雷敷設艦アムールとエニセイがエッセン海軍中将の命令で午前10時にレーヴェリを出港し、続いて巡洋艦戦隊、リューリクを先頭にした戦列艦戦隊、第1水雷分艦隊の順でラプヴィクを目指して出港した。巡洋艦戦隊と戦列艦戦隊は様々な訓練に従事し、その間に第1・第2水雷分艦隊は夜間の奇襲訓練の準備を行った。計画通り、この日の夜間には水雷分艦隊による主力艦隊への奇襲訓練と、巡洋艦戦隊・戦列艦戦隊による夜間水雷艇撃退訓練が行われた。7月19日には、リューリクはツェサレーヴィチとともに主砲の射撃訓練に従事した。両艦は、陸軍の観衆の前で海軍の誇る艦砲射撃の腕前を披露してみせた。 7月26日夜8時には、リューリクはマニコーフスキイ提督の将官旗を掲げたツェサレーヴィチとともにレーヴェリを出港し、バルト海へ出た。5 昼夜ののち、両艦はリューベック湾のトラフェミュンデに入港した。そこでは、ロシア帝位継承者の7 歳の誕生日を祝う祝賀朝食会がロシア大使の参加の下、ツェサレーヴィチ艦上にて催された。翌日には町の重役が艦に招かれ、また市民らは外からロシアの観賞を許された。マニコーフスキイ海軍少将の日記によれば、ロシアの士官や水兵の態度や身なりはたいへん素晴らしく、ドイツ人を大いに感嘆させた。分遣隊のトラフェミュンデ訪問は、その立派さで町の人々に大きな印象を与えた。8月4日朝、ツェサレーヴィチとリューリクは碇を上げて出港し、3 昼夜ののちレーヴェリへ到着した。 9月16日には、エッセン海軍中将の将官旗の下、リューリクはほかの艦とともにレーヴェリを出港した。9月19日には、戦列艦戦隊と巡洋艦戦隊は最新型の機雷敷設艦エニセイとアムールを伴ってデンマーク・キゲ港に入港した。翌日には碇を上げ、9月23日にはレーヴェリへ帰港した。その後の活動期間は戦列艦戦隊とともに内水で過ごし、11月にはスヴェアボルク停泊地に入り、そこで越冬した。
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