1905-1913年
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「ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1905-1913年」の解説
ベルリン時代は生産的に始まる。1906-1909年に小説『タンナー兄弟姉妹』『助手』『ヤーコプ・フォン・グンテン』が完成した。クリスティアン・モルゲンシュテルンが最初の小説『タンナー兄弟姉妹』を読んで感激し、平行して読んでいたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と比較したのち、ヴァルザーの3小説はすべてブルーノ・カッシーラー出版から刊行された。 3小説の出版と並行してヴァルザーは数多くの散文作品も新聞・雑誌で発表し、これらの散文作品は、すでにビールに移り住んでいた1913/14年になって、著作集として刊行することができた(次章参照)。 ベルリン時代に特徴的なのは「モデルネの詩学」であり、それは「間テクスト的連関および作品内連関によって、また同時代のディスクルスとの対峙の中で」 成立し、大都市の反復するモチーフの中に実現されている。「ベルリンはモデルネの都として、ヴァルザーの文学的風景のトポスになる。」 ヴァルザーは兄カールによってベルリンの芸術・文学界へと導かれ、ベルリン分離派に出入りし、ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau) やパウル・カッシーラー(Paul Cassirer)、エフライム・フリッシュ(Efraim Frisch) などの影響力ある人物に出会った。しかしながら、こうした華やかな富裕層の社交グループは彼の創作の一部とはならなかった。彼の作品には、「上昇する市民階級の同一化要求」 に添うようなものは何も含まれておらず、彼はむしろヴィルヘルム時代のベルリンの生を下方から、小市民的のらくら者の視点で描いた。しかしそうすることで彼は、社会的・文学的に自らをますます脇へと追いやった。影響力の強い社会に彼が精妙に背を向けていることはテキストに反映され、年々いっそう強く強調される。『アッシンガー(Aschinger)』において彼は次のように書いている: 「口をいっぱいにしていると、同時にその人の目は、ちょうど扉を押して入ってくる者を見つめる。人々は笑うことすらせず、わたしも笑わない。ベルリンに来て以来、わたしは人間らしさを滑稽だと思うことをやめた。」(ローベルト・ヴァルザー「アッシンガー」) 「憂慮すべきこと」では次のとおり: 「彼らは了見の狭い確信をもって、自分は他の人たちよりも価値があるものと誤解している。まったくもって素朴に、彼らは自らを教養人だと称し、鼻を得意げに上に向ける。哀れな人たち。高慢がどれほど無教養で未熟であるか、自分をきちんと判断する能力のなさに支配された者がいかに酷い教育を受けてきたか、彼らに理解できればよいのだが。」(ローベルト・ヴァルザー「憂慮すべきこと」) この「リアリズム」は小説『助手』にもっとも明確に現れているが、しかし『ヤーコプ・フォン・グンテン』に先立つ他のテキストでは、このリアリズム世界は、ロマンチックにもメルヒェンチックにもなることなく、理解不可能な怪物へと変貌し、それは日常の凡庸な細部を伴いつつも、それゆえにこそさらに大きな、全く見通すことのできない謎を投げかける。フランツ・カフカの初期のテキストも似たような機能を持っているが、そのカフカがとくにこの時代のヴァルザーの仕事を称賛したのも、不思議ではない。 批判的なテキストと並んで、大都市、映画館、劇場、そしてまた遊歩、自然観察や日常観察もベルリン時代のテーマであった。
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