龍窯の規模拡大(東晋~南宋)
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「龍窯」の記事における「龍窯の規模拡大(東晋~南宋)」の解説
晋の時代の龍窯は、聯江公社紅光大隊帳子山の後漢時代の窯の西方で発見されている。窯室の後半部分と窯尾の煙出し部分の長さ3.27mが確認された。幅は2.4mで、窯室部分は、2.5m残存しており、窯床の傾斜は10度であった。窯の底面には砂が敷かれて、窯道具が規則正しく並んでいたと思われる痕跡がみられた。おそらく窯の天井には投薪孔が設けられ、均質に素地が焼けるようになっていたと思われる。南朝時代にさらに規模が大きくなっていったと思われるが、麗水県呂歩坑の龍窯は中間部分の10.5m部分しか確認されていない。近隣には、唐代の龍窯があり、残存部分で39.85m、幅1.7m、窯床の傾斜10~12度である。窯の天井の投薪孔は直接確認できなかったが、このように窯体が長い窯で均質な焼成をするなら投薪孔が設けられなかったとは考えられない。 南京博物院が調査を行った宜興シ閒衆窯のうち、唐代の窯は、残存部分で28.4m、下半分は2~4度、中央部から窯尾までの部分は5~10度の角度で傾斜させていた。窯壁は長方形のレンガを積み上げている。窯頭に幅0.7mの焚き口があり窯室の側面に出入口のような痕跡がみられないことから、窯頭部分から直接出入りして窯詰めを行い、焼成が終わったあとに焼きあがった器を窯出ししたと思われる。中唐から晩唐、すなわち8世紀中葉から9世紀にかけては匣鉢(さや)が出現して使われるようになった。匣鉢を使うことによって製品を高く積み上げることが可能になり、多量の窯詰めが可能になるのみならず、窯室の天井の高さも高くできるようになった。そのため、横に窯への出入り口を設けて直接出入りできるようになった。 湖南省長沙銅官窯で発見された二基の龍窯のうち1号窯は幅3.3mで窯体の下半分が残っており、窯頭と窯床の下半分が確認できる。焚き口の幅は0.8mを測る。2号窯については幅3.2mで上半分の窯床と横向で長方形の煙出しの窯尾の部分が確認された。1号窯、2号窯ともに窯床の傾斜は20度である。2号窯では窯壁が高さ1.4mまで残っており、西側中央部分に出入口が確認されている。 宋代の龍泉窯では長い窯体を持つものは長さ80m前後にまで達した。幅は2m前後、天井までの高さは2m弱で一度に2~3万点の製品を窯詰めすることができた。南宋の終わり頃になるにつれて窯の長さは短くなり龍泉大窯杉樹達山2号窯は比較的遺存状態が良く残存部分は46.5m確認されている。実際の長さもやや長い程度であろう。臨安の郊壇下官窯のうち1基は、23mしかなく、製品の質を上げることに特化した窯であることを示している。窯頭には狭く長い焚き口があり、その下には火力を強めるための通風孔がある。窯床の傾斜は10~20度の間で推移していて下半分、すなわち前の部分は急に立ち上がり、上半分すなわち後ろ部分は緩やかになっている。 窯の壁には廃棄された匣鉢やレンガ、岩壁を用いている。側面には2~3mおきに片側に窯門と呼ばれる出入り口を設けるものと交互に両側に設けるものとがある。窯の天井の両側には、投薪孔が概ね等間隔に設けられ、窯室の最後部の壁の下には幅2m以内の窯であれば狭間(さま)孔が7個設けられている。煙出しはレンガや匣鉢や石を使って横向きの長方形に造っているものや土坑を掘って煙出しにしているものなど様々である。
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