黒駒勝蔵と清水次郎長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)
甲斐において潜伏していた竹居安五郎は安政5年(1857年)頃から博徒としての活動を再開していたが、文久2年(1862年)には国分三蔵・上野の浪人犬上郡次郎らの計略により捕縛され、獄死する。黒駒勝蔵は安五郎の勢力を継承し甲斐においては国分三蔵を抗争し、駿河の宮島年蔵、伊豆の赤鬼金平・大場久八と同盟し、東海地方を転々とし清水次郎長とも抗争を繰り広げる。この頃には博徒間の抗争が広域化・複雑化し、甲斐国内のみならず駿河方面においても繰り広げられるようになった。 翌文久3年(1863年)に5月10日には天竜川で勝蔵と清水次郎長が対陣する。 元治元年(1864年)3月15日には勝蔵が国分三蔵宅を急襲し、三蔵は逃亡する。国分三蔵は従来これ以降の動向が不明であったが、近年の新出文書の発見で慶応3年(1867年)に国分村において村落間の紛争を調停するなど勢力を保っており、明治維新前後まで存命していたことが確認された。 同年6月に勝蔵は雲風亀吉のもとに身を寄せていたが次郎長に襲撃されている。さらに同年10月17日に勝蔵は安五郎の仇であった犬上郡次郎を襲撃し殺害する。また、同年には浪士を糾合して甲府城を奪取するという風聞が流れていたという。 慶応元年(1865年)7月に勝蔵は石和代官から追尾されるが、山中に潜伏して抵抗する。翌慶応2年(1866年)には勝蔵・次郎長間で荒神山の出入が発生する。 甲斐における追撃が激しさを増したことで勝蔵は甲斐を離れて岐阜の水野弥太郎のもとへ身を寄せ、慶応4年(1868年)1月16日には「小宮山勝蔵」の変名で赤報隊に入隊する。赤報隊は新政府に認められず壊滅するが、勝蔵は京都で「池田勝馬」の変名を名乗り四条隆謌の徴兵七番隊(第一遊軍隊)に参加し、戊辰戦争で東北地方を転戦し活躍する。 明治3年(1870年)の兵制改革で勝蔵の所属していた徴兵七番隊は解散した。勝蔵はそれ以前に甲斐の黒川金山採掘を新政府に願い出て許されているが、採掘事業には失敗する。翌明治4年(1871年)2月2日に勝蔵は脱退容疑で捕縛され、入牢する。同年10月14日には博徒時代の殺人などの罪状で刑死している。勝蔵が博徒の身から官軍に供奉するまでの出来事は甲斐において喧伝され、地元の書肆から『甲州黒駒勝蔵評判くどき』が出版されている。 明治後、清水次郎長は博徒から足を洗い社会事業に専念し、明治13年(1880年)6月15日には勝蔵派の原田常吉、雲風亀吉らと清水一家との間で手打ち式が行われ、甲州博徒の抗争は終結する。
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