黒駒勝蔵と那須信吾
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1913年(大正2年)に甲州財閥の一人である堀内良平により記された『勤王侠客 黒駒勝蔵』には、勝蔵と土佐藩の郷士・那須信吾(1829年 - 1863年)との関わりを示す逸話を記している。那須信吾は伯爵・田中光顕の叔父にあたり、土佐勤王党に加わり文久2年(1862年)5月6日に同志とともに土佐藩参政の吉田東洋を暗殺している。那須信吾はその後長州藩へ亡命し、文久3年(1863年)8月17日には大和国で天誅組の変に加わり、同年9月24日に戦死している。 『勤王侠客 黒駒勝蔵』はフィクションでありつつも聞き取り調査を行った成果を用いて記している。同書によれば文久2年(1862年)に那須信吾が「石原幾之進」を変名を名乗り勝蔵のもとを訪れ、同年9月まで滞在し勝蔵に天誅組の変に加わることを奨めたという。同書によれば、田中光顕は同書を読んで那須信吾の足跡が明らかになったことを喜び、1926年(大正15年)1月10日に堀内は静岡県蒲原の田中邸を訪れると田中から謝意を受ける。その際に田中は親交のある徳富蘇峰が1918年(大正7年)から国民新聞に連載を開始していた『近世日本国民史』完成への助力を依頼され、堀内を介して甲州財閥の根津嘉一郎と徳富を結びつけるきっかけにもなったという。
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