高望流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 12:35 UTC 版)
「坂東平氏」も参照 葛原親王三男の高見王の子・高望王の子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望はそのうちの一人と推定されている。 高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。良将の子平将門は大規模な反乱を起こし(承平天慶の乱)、追討にあたった国香の子・平貞盛の子孫は関東各地に勢力を張った。鎌倉幕府の実権を握った北条氏や御家人の熊谷氏は、貞盛の曾孫である直方の末裔と称している。 また、高望の側室の子良文は鎮守府将軍になるなど武士として活躍し、主に関東に勢力を張った。土肥氏・秩父氏などは良文の子孫を称している。しかし孫の平忠常が反乱を起こし(平忠常の乱)、源頼信の討伐を受けたことでその子孫は源氏の家人として扱われるようになった。忠常の子孫は千葉氏・上総氏などの房総平氏を輩出している。千葉氏の庶流には陸奥国宇多郡・行方郡を領した相馬氏があり、江戸時代まで大名として続いた。 特に良文流の坂東平氏の中で著名な千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、畠山氏、鎌倉氏、中村氏、大庭氏は坂東八平氏と呼ばれる。
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