類似の討ち入り事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
浄瑠璃坂の仇討 赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。浄瑠璃坂の仇討とは宇都宮藩を追放された奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元家老奥平隼人を討った事件である。源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば死罪であるところを、幕府により死一等を減じられて伊豆大島への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。ただし、彦根藩に召抱えられた源八の子孫・奥平氏は桜田門外の変の後に井伊家から召放になっている。 この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある。 深堀事件 深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人高木彦右衛門と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。 大音寺坂にて深堀鍋島家の家臣二名が高木彦右衛門の家来に雪解けの泥をかけてしまったことから口論となる。その場は近所の住人の仲裁で収まったものの、恨みを抱いた高木の家来十数人が夕刻に深堀鍋島家蔵屋敷に乱入。鍋島家家臣を打ち据え、大小の刀を奪いとった。 これに立腹した深堀鍋島家の家臣が当事者の引き渡しを要求。高木彦右衛門は低姿勢で謝罪したものの引き渡しは拒否したため、深堀鍋島家の家臣12名が高木の屋敷に討ち入り。高木彦右衛門および事件の当事者や他家来など9名がその場で殺される。雪解けの泥をかけた深堀鍋島家の家臣二名は事件後すぐに自ら切腹した。 他に討ち入った10名は三か月後に幕府の命により切腹となった。また討ち入りに後から駆けつけた9名の藩士は島流しとなる。だが深堀鍋島家当主鍋島茂久には処罰は及ばず、むしろ武士の誇りを見せたと称賛を受けたという。 高木家側は深堀鍋島家蔵屋敷に押し入った10名が斬首。高木彦右衛門の息子はその場にいながら応戦せず隠れた非を咎められ、家財没収のうえ長崎追放となった。
※この「類似の討ち入り事件」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「類似の討ち入り事件」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。
- 類似の討ち入り事件のページへのリンク