革命直後~内戦期
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「軍服 (ロシア・ソ連)」の記事における「革命直後~内戦期」の解説
赤衛軍を鼓舞するトロツキー。赤衛軍兵士らは帝政期のギムナスチョルカを着用(1918年) 赤軍部隊を観閲するレーニン。指揮官らはフレンチ型や背広型など雑多(1919年5月) 第1コストマ軍事革命支隊(ロシア語版)の軍装 第1コストマ軍事革命支隊階級章 赤軍指揮官パヴェル・ドゥイベンコ(英語版)と黒軍指揮官ネストル・マフノ1918年 1919年 / 1922年制式 革命後の赤軍は、しばらくは階級徽章一切を取り外した帝政期の軍服や鹵獲した海外干渉軍の被服を使用した。中でも英軍戦闘服は好まれ、それを模倣したもの(ジョン・フレンチから「フレンチ」と呼称されていた)も多く作られた。1918年の4月に帽章が制定され、1919年の革命軍事評議会第116号指令にてシェレム(ブロードのヘルメットの意、俗称ブジョノフカ、セミョーン・ブジョーンヌイに由来する)と呼ばれる帽子とルバーハ(ギムナスチョルカ)、カフタン(外套、のち帝政期呼称のシネーリに戻す)が制定された。ルバーハは詰襟で、正面合わせには騎兵の肋骨服のような装飾が配され、階級に相当する役職章を袖に示した。帽章と肋骨は兵科によって塗り分けられていた。歩兵は赤、工兵は黒、砲兵は橙、航空兵は水色、騎兵は青、国境警備隊は緑である。1922年に量産化のため折襟に変更などの改正がなされたが、鮮やかな襟の装飾は現代戦では不適当であるとのことから、1924年にフレンチ型に変更された。しかしブジョノフカはのちのピロートカに取って代わられるまで長らく使用され、冬戦争でもブジョノフカを使用していた兵士がいた事が鹵獲品から確認できる。 創設当初の赤軍の軍服を着たトロツキー(1919年) タマン赤軍兵士(1919年) ブジョノフカを被った兵士(1926年) 帽子とコート。コートの赤い飾りは歩兵科であることを示している。 ブジョノフカを被った将官。ミハイル・フルンゼ 赤軍指揮官。帝政期の軍服やフレンチ服を着用(1921年) 第4軍(ロシア語版)の指揮官ら。左奥以外はM1919ではなく帝政期の軍服やフレンチ服を着用(1920年) M22上衣。袖章より内務軍中隊長ないし副中隊長。 M22着用の司令官室長(師団長相当)。襟章は「ペトログラード司令官室」の頭文字。 M22シネーリの軍楽兵。襟章は同じくペトログラード司令官室の所属を示す。 M22着用の空軍搭乗員 M24着用の騎兵生徒(1925年)
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