静岡県政参画
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明治元年(1868年)9月徳川家達が駿府藩に赴任すると、その用達に指名され、水利路程係として治水を担当し、士格に列せられた。明治2年(1869年)1月藩士として赴任した渋沢栄一の事業に参加し、商法会所附属、明治3年(1870年)常平倉監督を務めた。 明治5年(1872年)廃藩置県により静岡県が誕生すると、参事浅野氏祐より第五十区戸長を命じられ、人口調査を行った。 明治4年(1871年)安倍川は川越から渡船に変更されたため、富士川、天竜川の船頭を雇い、失業した人足に漕法を習わせたが、上達せず、1873年(明治6年)安水橋建設を計画し、翌年竣工した。1876年(明治9年)には、杉山喜平治、仁藤延吉、水谷九郎平等地元の有力者と共に宇津ノ谷峠に隧道を開削した。 1875年(明治8年)権令大迫貞清の下で学校200校余りを新設し、8月15日勧業係兼務、12月教部省中講義、明治9年(1876年)6月第四五大区区長兼管内民費取調係を歴任した。1876年(明治9年)足柄県伊豆国部分が静岡県に併合されると、県大属永峰弥吉と韮山町に出張し、地元の区戸長等と討議を行った。 1875年、出島竹斎、山村嘉平、福島茂平と共に、久能山東照宮社金2万8千円の取扱を命じられ、資金運用により1887年(明治20年)には10万円余に増殖させた。 1876年(明治9年)2月宅地内に朝陽義塾を設立し、学者を招いて漢学、洋学を教えた。英学は箕作秋坪門下梅沢武雄が担当し、福島勝太郎、荻原太郎次郎、堀田録多、巻本角太郎等が輩出されたが、1878年(明治11年)には官立中学校が設立されて役目を終え、1882年(明治15年)頃廃校した。 1876年(明治9年)6月6日静岡県顧問となり、地租改正に際し有渡郡、安倍郡、志太郡、益津郡、庵原郡5郡を担当し、静岡市の地価設定に関わった。 1877年(明治11年)郡区町村編制法が制定され、1878年(明治12年)3月12日から1880年(明治14年)2月5日まで有渡安倍郡長を務めた。 明治11年(1878年)静岡病院設立に際し資金を負担した。
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