陸上競技、現役時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:37 UTC 版)
瀬戸内の古い港町である広島県三原市糸崎町松浜東の出身。海小学生の頃から、ソフトボールは4番でピッチャー、相撲は主将と運動万能であった。小2の頃、漁港で遊んでいる時に不慮の事故で足複雑骨折、長期入院。これを機にリハビリを兼ね町内をジョギング始めた。なお幼馴染みの記憶では、雨の日でも休まずに毎日走っていたそうで、自分で決めた事はやり通す、意志の強い少年であったと語っている。 中学校に入学後、野球部に入部するか迷った様子であったが、幼稚園から彼を知る近所の同級生の勧めもあり、陸上部に入部し長距離走を始めた。中学1年生のマラソン大会では上級生を抑え校内1位。中学3年生の県総体1500m競走では2位。進学した広島県立世羅高等学校3年生時の1984年には、主将として全国高等学校駅伝競走大会へ総合2位に貢献(優勝、報徳学園高校)。世羅高校OBが陸上競技部の監督を務めていた中京大学に進学し、3年時に日本インカレ5000メートル3位。 1989年、郷里の中国電力(広島県広島市)に入社し、陸上競技部の創設に参加。1993年には主将として全日本実業団駅伝初出場に貢献した。しかし、故障が原因で入社5年目の1995年に27歳で選手生活を引退、その後は10年間中国電力でサラリーマン生活を送る。同期が本社で活躍する中、配属されたのは支店の下の山口県徳山市(現・周南市)の営業所。ここで蓄熱式空調システム「エコアイス」を社内で一番売り上げて評価を上げ、新規事業を立ち上げた。「伝説の営業マン」を自称する。この間、中国電力陸上競技部は坂口泰監督の手腕と有力選手の加入により実業団トップチームへの道を歩む。
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