関学の連勝を145でストップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 04:39 UTC 版)
「京都大学ギャングスターズ」の記事における「関学の連勝を145でストップ」の解説
1961年に、ピンカーマン初代監督の後を引き継いだ神田綽夫監督が退任。後任に藤村重美(市立西宮高校教諭、同校タッチフットボール部監督)が監督に就任する。この年、入部したのが2011年まで監督を務めた名将水野弥一である。水野は学部卒業後、大学院に進学し、コーチに就任。チームは徐々に実力を高める。 1967年、外語学校講師だったジョージ・T・リーがコーチに就任。チームの名称のギャングスターズは、リーコーチが導入した「ギャングスター・パス」という戦法に由来して名付けられた。水野コーチは1968年に大学院を修了し、自動車メーカーに就職。仕事の傍らコーチを続けた。京大は1970年に1949年以来の2位になるが、関学の壁を破ることは出来なかった。水野は辞職してアメリカに留学することを決意する。 1971年から水野はコロラド鉱山大学に留学、OBで大学院生の金氏眞がヘッドコーチに就任する。金氏コーチはオプション攻撃を導入。これが後の京大隆盛の基礎となる。1973年には水野が帰国してヘッドコーチ(1974年から監督)に就任。1974年からオフェンスの新体形としてウイッシュボーンを導入し、トリプルオプションが威力を発揮する。チームは1971年3位の後、1972-1975年の4年間2位となり、1975年には関学に一旦リードしながら逆転負け(京大14-24関学)する等、関学との実力差は以前より確実に縮まった。 1976年、京大はウィッシュボーン隊形をやめ、Iフォーメーションからのトリプルオプションを採用。最終節の関学戦で、遂に初勝利(京大21-0関学)を挙げる。関学はこの敗戦により1948年より続いていた連勝記録が145でストップする。しかし、関大戦では16-20で敗戦していたため、6勝1敗で関学と両校優勝となる。プレーオフでは関学が13-0で勝利、京大の甲子園ボウル出場はならなかった。
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